今日のぽかぽか3

『アメリカの標的 〜日本はレーガンに狙われている〜』1981年 〜ぽかぽか対談〜

「ソ連軍が日本に攻めてくる」などということが仮にあるにしても、それは必ず、アメリカの了解をえた後にはじめてなされうる。


ほー。


現在の日本は錯覚のうえに成り立っている。 国際政治力学上決してありうるはずのないことが、あたかも、現実に生起しうるかのごとく錯覚されてしまっている。これが恐ろしい。アメリカとソ連はお互いに敵、アメリカは日本の味方でソ連は敵だという、36年一日のごとき虚妄の前提のうえにすべてがうちたてられている。


ほー。


まず、例えばソ連脅威論がそれである。1976年12月27日、ソ連軍がアフガンに侵入するや、たちまち論壇の空気は一変し、昨日までの空想的平和主義がまるで嘘みたいに、ソ連脅威論が語られるようになった。もはや誰も、左翼的文化人の平和論などを、まじめに相手にしようとする者などいなくなってしまった。


ほー。


ところで、空想的平和主義が非現実的であるがごとく、アフガン事件いらい2年たっても、いっこう下火になるとも思えないいま流行のソ連脅威論もまた、非現実的きわまりないものである。


はー。


かつてのヤルタ会談のごとく、日本征服に関する米ソの共同謀議が成立してはじめて、ソ連は、対日軍事行動の自由がえられる。これは国際政治力学の鉄則からえられる結論であり、万が一にも、これ以外のことはありえない。日本が真に恐れるべきは、かかる米ソの合意が成立するように国際政治力学が作動すること、 しかもそのとき、 日本がそれを制御しうる能力を喪失すること。国際政治の力学を知る必要がある。


ほーほー。


はじめに留意すべきことは、ソ連の対日宣戦はアメリカがけしかけたことによる、 ということである。


え、そうなんですか。


日本人のソ連脅威論の心情的根拠として、誰もが挙げる事実がある。1945年8月9日、日本がB29とアメリカ潜水艦にさんざんいじめぬかれてヘトヘトになり、原爆まで落とされたとき、ソ連は突然、日ソ中立条約を蹂躙して攻めてきた、このことがどうしても忘れられないのである。


ほんと、そうですよ。


ヤルタに集まったチャーチルやスターリンには戦争のヤマは見えすぎるくらい見えていた。しかし、あまりにもすさまじい日本軍の抵抗に辟易したルーズベルトは、対日戦勝まで、あと何年もかかるだろうと思い違いをした。


ほー。


ソ連のやり方はきたならしく見え、いまでも恨み骨髄に徹してる人は多いが、恨むとすれば ソ連だけ恨むのは片手落である。1945年2月4日、ル ーズベルト、チャーチル、スターリンの連合国三首脳は、ソ連領クリミア半島のヤルタに集まって、戦後の処理をどうするかについて相談した。


ほー。


戦争にうといルーズベルトは数百万のアメリカ青年が死ぬことだろう。そこで、千島、樺太を代償としてスターリンに対日宣戦を要求したのであった。ところが、この申し出をスターリンは断わる。その理由は、ソ連は日本と中立条約を結んでいるから、合法的に戦争はできません、というのである。このことは記憶にとどめておく価値がある。なぜなら、この事実を強調する日本人はほとんどいないからである。老獪なスターリンは、宣戦の条件をつりあげるためにこんな発言をしたのだろうと思う人がいるかもしれないが、いずれにせよ、そこを無理やり口説き落として、ソ連の対日攻撃にまでもちこんだのが、実はアメリカであった。


なるほど。


重要な行動を起こす場合には必ず列強の了解がえられた後にする、というのが国際政治のルールだ。相手国が友好国である場合はいうに及ばず、敵性国家であった場合でさえも、このルールに例外はない。


なるほど、なるほど。


ソ連膨張主義の例として名高いものに、バルト三国のへいどん(併呑)、フィンランドへの軍事攻撃、ポーランド東半の征服などがあるが、これらの行動は当時、ソ連にとっては最も恐ろしい相手、 ドィツの了解のもとに行われたのであった。


ヒットラーは、オーストリアをとり、 ズデーテンラントををとり、1939年、ついにチェコスロバキアまで占領して、つぎは、ドイツ国民宿願のポーランド回廊の恢復だ。


回廊ってなんですか?


領土から伸びる、廊下のような細長い領土である。

それがなければ内陸国となる国から、海へと抜ける。

本土から、それがなければ飛び地となる領土と結ぶ。

他国の領土と結ぶ。


ことを指す。


ほー。


これは、ヴェルサイユ条約によって、ボーランドに海への出口を与えるために、 ドイツが無理やりに奪い去られたもので、これがあるかぎり、東プロイセンは飛地になってしまうのである。こんなものさえ取りもどせないようでは、偉大なる第三帝国の建設など、夢のまた夢だといわれてしまうだろう。ヒットラーは、どうしても、ボーランド回廊をドイツに取りもどさなければならなかった。 しかし他方、今度という今度だけは、英国もフランスも、ボーランド回路を、むざむざとドイツにくれてやるわけにはゆかない。はじめからボーランド回廊だけを要求していたならば話は別だったかもしれないが、ヒットラーには、チェコスロバキア併合という前科がある。1938年のミュンヘン会談においてヒッラーは、英国首相チェンバレンに、くりかえし約束した。「これがヨーロッパにおける最後の領土的要求である、君はドイツ人が住んでいもしない土地に、何の関心もないであろう」と。 そして、 チュコスロパキアにおけるドイッ人居住区たるズデーテンラントを要求したのであった。これを拒否すれば戦争になることは目に見えている。英仏首脳は、戦争を何よりも恐れた。しかしさらに重要なことは、ヒットラーのいい分も、もっともだ、と思ってしまったことであった。かくて、英仏はヒットラーの要求をみとめ、ヒットラーは一兵をも用いずして、ズデーテンラントを獲得した。ここで止めておけばよかったものを、きこ(騎虎)の勢いにかられたヒットラーは、1939年3月、 チェコスロバキア全土を奪ってしまった。さらにこうなると、いままでヒットラーの無理難題を仕方なく聞いてきた英仏も、かんかんにおこって戦争の決意をかためざるをえないことになった。ラインラント、オーストリアやズデーテンラントまでならば、ともかくも、民族自決主義の立場にたてば、ヒットラーの主張もまた正しいと説明できる。それが、チェコスロバキア占領となると話は根本的に違ってくる。ミュンヘン会談においてヒットラーに大譲歩して、チェコスロバキアの犠牲によって平和を購って帰国したチェンバレンは、歓呼して迎える群衆に対して、「これは、名誉ある平和がドイッツからグウニング十番街に帰ってきた二度目のことである」とこうぜん(昂然)として揚言した。ヴィクトリア朝における英国の大政治家ディズレーリは、ベルリン会議において大成功を収め、一兵をちぬることなくサン・ステファノ条約を実質的に廃棄させて、露土戦争におけるロシア 戦勝の結果を横取りして凱旋した。このとき彼は、狂喜してむかえる群衆に対して「余は諸君に名誉つきの平和をもちかえった」といった。チェンバレンは、おこがましくもこの前例に言及したのである。ところが、ヒットラーが約束を破ることによって、ダウニング十番街に二度目にもどってきたのは、とんでもない、不名誉きわまりない平和であることが、誰の目にも明らかになった。そして「戦争屋」チャーチルがいったことが、正しいということが証明されてしまったのである。


ははー。


これでは、いかに優柔不断のチェンバレンでも、戦争を覚悟しないわけにはゆかない。チェンパレンは、ドイツ周辺の小国に、一方的に英国の軍事援助を約束していった。 こんどこそ戦争だ。ヒットラーは、自著『マイン・カンプフ」』において、第一次大戦でドイツが修敗した理由は、フランスとロシアとを同時に敵にしたからであると強調している。この前車のてつ(徹)は、ふまれるべきではない。しかも、英仏の援助をあてにしたボーランドは、頑としてポーランド回廊をドイツに引き渡そうとはしない。こうなればドイツは軍事力を行使して、武力によってこれを奪うしかない。そうなると英仏との戦争は必至だ。もとより、ナチスとボルシェビキとは、ふぐたいてん(不倶戴天)の仇どうしではある。しかし、フランスと口シアを同時に敵にすることができないということが至上命令であれば、現実政治家ヒットラーには、もはやイデオロギーがどうのこうのなんていってはいられない。ここに、スターリンがつけ込むスキがあった。


ほー。


当時、ソ連は軍事的には、とうていドイツの敵ではない、と思われていた。客観的な第三者、というよりもソ連にむしろ好意的なフランスの専門家がそう分析していたのだから、まず間違いはないと見てよかろう。ところが、この英仏と開戦必至というドイツの窮状を利用したスターリンは、外交的に大きな獲物をえた。1939年8月23日締結された独ソ不可侵条約は、独ソ双方に大きな利益を与えたが、直接的な取分に関するかぎり、ソ連のほうが有利であった。ドイツが電撃戦によってボーランドの西半分を獲得し、そのかわり英仏を敵にまわしてしまったのに対し、ソ連は、ボーランド東半分をとり、バルト三国をとり、フィンランドを降伏させて、レニングラード北西地帯を奪った。これもみな、ヒットラーの了解による。もちろん、この場合了解したとはいっても、決してヒ ットラーが喜んでこれを与えたわけではないが、たとえソ連がこれらの国に対して軍事行動を起こしたとしても、ドイツは、しぶしぶながらもそれを承認せざるをえない状況下にあった、ということである。これが肝要である。


なるほど。


では、ソ連のアフガン侵攻はどうか。ちゃんとアメリカの了解があったのである。


そうですか?。アメリカの大統領カーターは、了解どころか、 烈火のごとく怒りたけり、 たちまち、対ソ制裁をうち出したのではなかったですか?


リリが重要なところだが国際政治上、「了解」と一口にいっても、明示的な了解もあれば、 暗黙的なそれもある。カーターは政治力学的にみれば、暗黙的な「了解」とうけとられてもやむをえない行為をしてながら、それに少しも気づかなかったのである。


ほー。


アフガニスタンは世界のようしょう(要衝)であり、19世紀においても英露係争の地であった。しかも、19世紀においては、英国の力がロシアの力をだいぶ上まわっていたから、アフガニスタンは英国の勢力圏に入っていた。第二次大戦後、アメリカが英国からひきついで、アフガニスタンは、しばらく、西側にとどまっていた。それが、アメリカがしだいに左前になるにつれて、アフガニスタンへの援助をへらし、基地を撤去していった。


くりかえしていう。アフガンは世界の要衝である。


要衝ってなんですか?


交通・軍事・通商の上で、大切な地点だ。


ほー。


ここを力の真空地帯にしておくことは、政治力学的に不可能である。アメリカが出てゆけば、ソ連が入ってくる。それがいけなければ、アメリカはただちにソ連に警告を発すべきであった。たら、たたき出すゾ」と。そして、実力をデモンストレートすべきであった。 一九七三年、ながらく親米的であった王制が倒されて、親ソ的社会主義政権が誕生した。このとき、アメリカは指をくわえてだまって見ていた。ベトナム戦争でヘトヘトになった上、世界か ら内政千法といって批難されることを恐れたのかもしれない。しかし昔から、口では内政干渉絶 対反対を絶叫しながら、最も有効に内政干渉を実行するというのは、英帝国主義いらい、アング ロサクソンのお家芸ではなかったのか。バーマーストーンやルーズベルトがそのいい例だ。今さ らヤメタといっても通用するはずはない。それがなければ「アフガンはくれてやりますという意 味だ」とソ連が解釈したとしてもこれは当然のことである。


なるほど。


さらにもっと決定的なゴー・サインは、1978年に締結された、ソ連・アフガン間の友好善隣協力条約だ。この条約締結の際、アメリカは黙っていたのであるから、ソ連のアフガン侵略に了解を与えたと解釈されても文句はいえない。


そうですね。


ソ連と地続きの国で、この条約を結んだが最後、必ずソ連に侵略されることになっていること は、歴史的にみても明らかである。


そうですよね。


また、いったんこの条約ができてしまうと、ソ連軍が侵入し ても、それは国際法上は合法的なのだ。


ほー。


この条約の要諦・エッセンスを一言でまとめると、ソ連とアフガンは、「相手が軍事的に危なくなったら、 武力を行使して助けてあげましょう」ということになる。


はー!


しかし、実際問題として、ソ連が軍事的にビンチになったとき、アフガンなんぞに、何ほどのことができるというのだろう。だから、 この条約は、名前こそ「友好善隣協力条約」だが、本質的には、一方的条約だ。アフガンが軍事的困難におちいったら、ソ連軍が助太刀にかけつける、という意味内容の条約なのである。というと、額面上はたいへん親切な条約のようだが、 そこが曲者。この助っ人、 強盗より恐ろしい、ときている。「助けて貰っている」あいだに、国ごと取られてしまうのだ。 リトアニアもラトビアもエストニアも、みんなこれでやられた。


なるほど。


フィンランドも、この手口で乗っとられそうになったが、指導者たちの血のにじむような努カのおかげで、からくもソ連のこぐち(虎口)を脱しているというのが現在の状況だ。


ほー。


フィンランドは、昔から親独的な国でロシアが嫌いである。フィンランドは、 歴史的にはロシア領であったが、ロシアとは人種も文化もかなり違う。第一次大戦を機にロシアから独立する気運がまきおこった。このときのロシア軍は、ドイツ軍に連戦連敗、やがて、一九一八年ブレスト・リトフスクで屈 辱的な降伏をすることになるのだが、すでに、敗勢は誰の目にも歴然たるものがあった。これを 見て苦労人のフィンランド人は考えた。ここで独立して立憲君主制をしき、ドイツ皇太子を国王に選挙しよう」と。


はー!


ヨーロッパでは、これは大変な名案なのである。 しろもの 立憲君主とはお飾りみたいな代物だから、国内向けなら国王は誰でもいいというわけである。


ほー。


例えばスウェーデンなど、ナボレオンの将軍ペルナドットを貰いうけて国王にっけた。本家の ナポレオン王朝のほうは、いまや影も形もないのに対し、ベルナドットとデジレ(ナボレオンの恋人で、その後、ベルナドッテの妃となった)の子孫は、いまでもスウェーデンの国王の地位にある。


ほー。


もし、ドイツ皇太子がフィンランドの国王を兼任するとなれば、フィンランドの内政にはあま り口をさしはさまないだろうし、対外的には、いかなる国といえども、ドイツと戦争する決意なしにはフィンランドを侵略することはできない。独立まもないフィンランドのごと小国にとって、まったく、願ったりかなったりの名案であった。


ほー。


ところが、ドイツが第一次大戦で敗けて革命が起こり、せっかくの名案もオジャンになってしまった。皇帝も皇太子もいなくなってしまったからである。 しかしそれでも平和が続いている間はよかった。


はー。


フィンランドの運命は、ヒットラーとスターリンとが手を結んだとき に きわ まった、とい る。ソ連と不可侵条約を結んだドイツは、ソ連が対英仏戦において中立を守る代償として、フィンランドンランドをソ連に与えたのであった。


うー。


1939年11月、ソ連の大軍はフィンランドに侵入する。フィンランド人はよく戦って、ソ 連軍は、しばしば大敗を喫するが、どこの国も、フィンランドに実効性のある援助を与えること ーグ*ャる*ーションズ はなかった。ソ連のフィンランド侵略は、世界の激島を買い、ソ連は、国 際 連盟から除名され た。イギリスやフランスはフィンランド救援軍を作って助けに行こうとしたが、対独戦をかかえ ている連合国には、この試みもなかなか思うようにはゆかない。


うー。


フランスの将軍のなかには、 「しばらく対独戦を休戦にして、ソ連征伐をやろう」と主張する者もいたが、ソ連はすでにドイツの了解をとりつけている。こんな話が実現するわけもなかった。


はー。


いずれにせよ、スターリンが国際政治のなんたるかを理解していたこと、大国ドイツの了解を とりつけてから軍事行動を起こしたことが、フィンランド征服を可能にした。 もし仮に英仏のような大国がフィンランド救援にかけつけていたとしたら、緒戦に連戦連敗のソ連軍は、さきじ(いかにも小さな)たるフィンランド軍に、返り討ちにされていたかもしれない。 当時のソ連軍は、大粛清の傷あと生々しく、大戦争の試練をうけていなかったから、その戦闘能力は、イギリス、フランスなどの当時のヨーロッパ一流国とくらべると、かなり見劣りのするものであった。だから、英仏が、本気になってフィンランドに助太刀していたならば、ソ連の敗戦も、十分にありえたのである。もし、そのようなことにでもなれば、ソ連軍の威信は、救いがたいダメージをうけ、独ソ連合で戦う気迫は、とっくに失せていたかもしれない。とても、ベトナム敗戦後のアメリカどころのさわぎではなかったのである。そんなことにならなかったというのも、スターリンがよく、国際政治の論理を理解していたからである。


なるほど。


孤立無援のフィンランドが、長期にわたってソ連の大軍と戦闘を続けることは、やはり不可能で あった。最終的に敗北して、ソ連が要求した領土を割譲して講和を結ぶ以外に方法はなかった。 フィンランド人はくやしくてたまらず、報復の機会をねらっていたが、その機会は案外にも早くきた。


ほー。


1941年6月22日、ドイツ軍は、レニングラード、モスクワ、ウクライナをめざして怒濤の進撃を開始する。緒戦においてソ連軍は、有効な抵抗もできず、みるみるけちらされてしまったから、フィンランドにとっては、まさに絶好のチャンス到来であった。


ほーー。


フィンランドは、ただちにドイツ側に立って参戦したが、この戦争は周知のとおり、四年間の大激闘のすえ、ドイツの全面的敗北に終わる。ここに再び、フィンランド苦難の道がはじまる。


うー。


またもや、 同盟国もなく、 ただひとり、 猟のごときソ連との対決をせまられる。いや、 状態は 前よりもっと悪くなったといえよう。「九三九年の戦争のときにはフィンランドに同情的であったイギリスも、フランスも、アメリカも、今度は敵である。


あー。そうゆうことなのですね。


1946年、苛酷きわまりないパリの講和会議において、全人口の12パーセントが住み全領土の10分の1以上にあたるカレリア地方が喪失させられ、膨大な賠償金を課せられたフィンランドは、1948年2月23日、突如としてスターリンから書簡をつきつけられた。いわく友好善隣協力条約をソ連と結ぶ用意があるか、というのである。


ここで、先程の話とつながるのですね。


ソ連とこの条約を結んだら最後、ソ連に占領されることは火を見るより明らかだ。バルト三国がそのいい例ではないか。しかし、敗 戦でへとへとになったフィンランドは、スターリンのこの命令にもひとしい提案を拒否すること ができるであろうか。誰もが、独立国たるフィンランドは、これでおしまいだと思った。 が、ここから、バーシキヴィ大統領をはじめとするフィンランド指導者の、血のにじむような努力が始まる。


ほー。


東西紛争の局外に立ちたい、というのがフィンランド人の熱烈な希望である。彼らは、ソ連は 大嫌いであり、彼らの政治制度は、西欧デモクラシー型であり、東欧・ソ連型ではない。


はいはい。


できれば西欧陣営に属したいところだろうが、そんなことは、国際政治力学が許さない。このことをもまた、フィンランド人はよく知っていた。ソ連がフィンランドに要求することは、北西国境の安全である。これだけは、ソ連は、どんなことがあってもゆずらないであろう。 そこでフィンランドは、 ソ連の安全保障上の要求は満足さ せるが、それ以上の要求、とくにイデオロギー上の要求には一切応じないという政策を貫徹することによって、難局に対処する。


ほー。


これは、綱わたりにも似た困難な政策であり、一歩あやまれば、ソ連と西側諸国との信用をいっぺんに失って、フィンランドは、奈落の底に転落するほかはないであろう。


なるほど。


しかし、この努力がみのって、1948年4月6日モスクワで署名された恐ろしい友好善隣協力条約に、歯止めをかけることに成功した。


ほー。


「協議事項」をこの条約に挿入することにソ連を同意させたのだ。すなわち、ソ連はフィンランドに出兵するにさいして、フィンランドの同意を必要とするのだ。


おー。


すでに右のストーリーからお分かりのとおり、フィンランドの指導者たちは、断じてソ連の徳 らい 儡ではない。ソ連軍侵入の同意をたやすく与えるはずもないから、この事項の挿入によって、亡国の友好善隣協力条約は、たちまち、実質的に中立条約に変身してしまった。


なるほど。


このように、条約上の歯止めがかかったとはいえ、大国間の利害対立の局外にたちたいというフィンランドの宿願が、 そうやすやすと達成されるわけはない。フィンランドは、いかなる場合にもソ連の敵にはならないという決意をソ連に確信させなければ、 安全保障はえられないのだ。それと同時に、西欧諸国と仲よくしたい。多大の経済的犠牲を しのんで、マーシャルブランも拒否したし、東西両ドイツのいずれをも認めないという変則的な政策もとった。かくて、くしんさんたんのすえ、1956年1月、首都へルシンキから10マイルのボルカラ基地からソ連軍を撤退させて、ここに晴れて、フィンランドの中立政策は、東西両陣営の認めるところとはなったのであった。


おーー。


このフィンランド物語によって、ソ連の行動様式は、あますところなく明らかになったと思われる。


ですね〜。


すなわち、ソ連軍が行動を起こすための条件は、 (1) 友好善隣協力条約が締結されていること

(2) 傀儡政権が成立していること

この二つが、どうしても必要である。


なるほど。とても重要ですね。念のため傀儡政権って何ですか?


あやつり人形の政権ということだ。


友好善隣協力条約を援用して、傀儡政権にソ連出兵要求をさせれば、他国が何といおうとも、ソ連の行動は合法的になってしまう。後にも論ずるよう に、ソ連という国は、合法性の仮面なしには行動しない国なのだ。この点、ソ連は合法、不合法 など気にしない日本とは異なる。また、国際法なんか、解釈しだいで何とでもなると思っているイギリスやアメリカとも違うのである。


そうゆうことですか。


重要なことは、ソ連は、戦前ならばドイツ、戦後ならばアメリカのような、世界の強国の了解 なしには、決して軍事行動を起こさないという点である。


なるほど。ソ連の北海道侵攻のキー・ポイントを教えてください。近い将来に先程の二つが生起するかどうか、ソ連脅威論を説くまえに、われわれはまずこのことをよく考えてみる必要がありますよね。


さらに重要なことは、日本侵攻に関して、アメリカの合意がえられるかどうか。これがキー・ポイントである。換言すれば、ソ連脅威論は、その実質的内容において、アメリカ脅威論にほかならない。


なるほど、なるほど。


それも、アメリカが日本を有事のさいに放棄するなどという消極的な論拠ではなしに、もっと積極的にソ連をそそのかして攻略させる、というのでなければ、ソ連が日本に攻めてくることはないであろう。だからこの可能性こそ、問題なのである。


なるほど。


もちろん、ソ連だって、無償か僅少のコストで北海道が占領できるとでもいうのであるなら ば、その可能性は十分にあろう。われわれだって、タダかせいぜいで一兆円くらいで、シベリア を売ってくれるとでもいうのなら、その領有に反対する者は誰もいないであろう。


そうですよね。


結論を先どりしていえば、ソ連は、アフガン侵攻の後遺症が全治するまでは、後進諸地域における小規模なものは別として、日本や中東などの重要地域において、本格的侵攻をスタートさせる意図を有しないであろう。アフガン侵攻のコストは大きかったのである。このたびのアフガン侵攻によってうけたイメージ・ダウンは、とてもそんなものではない。


ほー。


失望と動揺は大きく、ソ連批判もわきあがってきたくらいである。


ソ連が、その国民総生産がアメリカの約半分でありながら、また、空前といえる経済危機にありながら、なけなしの金をはたいて経済援助につぎこむというのも、発展途上国を糾合してアメリカ勢力に対抗するためではないか。


はいはい。


発展途上国は、ソ連の援助をタダ取りして、その後、あまりソ連のいうことを聞かない、というような例が続出しているのである。そのうえ、アフガン侵攻などでソ連の人気がガタ落ちになったのだから、まさに、泣きっ面に蜂であった。


なるほど。


さらにソ連を痛めつけ た のが、アメリカの制裁であった。カーターは、国際政治においては、ほとんど取柄のない無能大統領ではあったが、ただ一つだけ、アメリカのためにすばらしい 遺産を残した。それは、対ソ制裁であった。オリンピックをボイコットし、対ソ食物輸出を規制した。この制裁措置によって、ソ連は、七転八倒の苦しみを味わったのである。


ほー。


農業がソ連経済の泣きどころであることはいまや、周知であるが、その深刻さは、外部の者の 想像の及ぶところではない。穀物生産地は、地理的に片よっていて、天候に大きく左右されるのだ。天候による影響は、日本やアメリカの農業と比較にならないほど大きい。不作になると、 家畜飼料にまわす分がなくなって、食肉生産が激減し、食生活の向上をのぞむ民衆の希望とまっこうから対立する。


ほー。


1975年には、米ノ殺物協定が締結され、ソ連は、1981年9月末日までの5ヵ年間、600万トンから800万トンまでの穀物輸入をアメリカから保証されることになったが、これは決定的に重要である。慢性的な農業不振と、それにもかかわらず食生活の向上をのぞむソ連民衆の強い希望におしき

られて外交上、いかに不利であろうとも、ソ連は、毅物の供給をアメリカに依存しなければならなくなった。


ほー。


ソ連にとって、対米戦争など不可能となり、ソ連の指導者も民衆も、アメリカの制裁はもう嫌だと、つくづく思ったに違いない。アフガン後遺症は、今でも、深く重く、ソ連にのしかかっているのだ。


そこにコストがのしかかったのですね。


これらのことを考えあわせると、ソ連にとって日本侵攻は、あまり引合う冒険ではなさそうである。


わかりました。


今や日本は、すでに「援助大国」である。その日本が、突如としてある日、ソ連の侵略をうけたとすれば、援助をうけている国は一体どういうことになるのだろう。世界の同情はきゅうぜん(翕然)(一致すること)として日本に集まるに違いない。


なるほど。


ソ連軍の日本攻撃の結果として、日本経済が崩壊することになったら、世界は一体、どういうことになろう。今や、世界経済における日本経済の役割は、かぎりなく大きなものであり、とて も、ソ連経済などと同日の談ではない。日本経済が崩壊したら、アメリカやヨーロッパですら打 撃をうける。アジア地域では、たちまち、国家経済が成立ってゆかなくなる国が続出することだ ろう。その責任を、はたしてソ連は、世界の国々に対して負うことができるのであろうか。かか る場合における責任追及を、どうやってうけとめることができるのであろうか。私には、このような事態に立ちいたったとき、アメリカが何らかの対ソ制裁を発動しないとは到底考えられない。


なるほど。


アメリカは、明確に約束された条約に関しては、きわめて忠実な国であることを、くりかえし強調してきた。しかし、一九八一年六月十~十二日の「日米ハワイ協議」にお いてアメリカ側は、北海道防衛のための来援が不可能になるかもしれない、といってきた。私見 では、これは日本の防衛努力をうながすための一つの手段である、と思われる。万一、アメリカ が軍事的来援が不可能であるにしても、ソ連がいきなり北海道に侵攻した場合、いかなる制 誠 もしないとは考えられない。アメリカは声を大にしてソ連を批難するだろう。その制裁として、 例えば食糧の禁輸を決定したらどうだろう。これだけでも十分、ソ連に対する致命的制裁となりうる。


なるほど。


古来、陸軍国は、本能的に 海を渡っての敵前上陸を恐怖し。とくにこの傾向は、ソ連において著しい。ソ連は今まで、一度も敵前上陸に成功したことがなかったからである。


ほー。


ナポレオンやヒットラーのように陸上においてなら、どんな冒険をもいとわない男でさえも、本能的に、敵前上陸に関しては、慎重すぎるくらい慎重なのだ。ヒットラーは、「わたしは、 陸上では勇者だが海上では 臆病者だ」といったが、これは、ナポレオンにもあてはまる。


ほー。


英国の闘いにおける敗北が、ヒットラーの最初のつまずきになったことは周知のところ。フランス軍もドイツ軍も、ドーヴァー海峡を恐れること、仔猫が渓流を恐れるごときものがあった。その理由は、仮に上陸そのものに成功したとしても、補給が続かなくなれば、二階に上がってハシゴを外されたような状態になってしまうからだ。


なるほど。


ソ連軍の敵前上陸失敗の例として有名なのは、1942年におけるケルチ半島上陸と1944年のバルト海正面上陸作戦である。


ほー。


仮に、いったん敵前上陸に成功したとしても、制海、制空権が完全でないと、あとが続かない。補給のための輸送船ほど弱いものはない。魚雷一発ですぐに沈没だ。対艦ミサイルでもうちこまれたら、その惨状は目もあてられない。


そうですやね。


補給路が断たれて、補給ができなくなったら、敵地に上陸した軍隊の末路はどうなるか。これ については、ロシア人ほどよく知っている民族はいないだろう。歴史をひもといてみればロシア人はいつでも、この手で大敵を撃退してきたのである トポムオンのときも、ヒットラーのときも、みな、 この手で勝っている。普通の場所で闘えば、あっという間に負けてしまうソ連軍が、敵を奥地にひきこんで、補給路をゲリラが襲う。補 給がなくなれば軍隊は動けないから、もう煮て喰うも、焼いて喰うも、こっちの勝手というわけ である。 pKトーか このことは、補 給 という考え方のうすい日本人には、とても理解できないことだろう。この点に関しては、ロシア人がずばぬけて鋭敏である。フランス人やドイツ人は、あまり敵前上陸ということは好まない。どうしても敵前上陸を行う場合は、補給を完全にしてからというのが彼らの定石である。 日本以外のどこの国でも、これをかたく遵奉している。イギリスやアメリカのような海軍国で も、制海、制空権が完全でない場合の敵前上陸ということは、考えてはいない。


ほー。


アメリカ映画に、『史上最大の作戦』という大作があった。1944年6月の、連合軍によるノルマンジー上陸作戦を取扱った作品であるが、こんな訳名がっいてもおかしくないほど、この作戦は大規模なものであった。1944年も6月ともなると、ドイツの空軍も海軍もほとんど動 けなかったから、制海、制空権がどちらにあるか、など、いうだけ野暮というものだ。それなの に、あれだけの大兵力を投入しても、参謀は心配のあまり、夜もロクロク眠れない。 しかし、このセンスこそ正常なのである。補給ということの恐ろしさを知っていれば、当然、これだけ思い悩むことになる。それゆえ、海空ともに、比較を絶して圧倒的に優勢でなければ、敵地に思いのまま陸軍部隊を上陸させるこ となど、できる相談ではない。


なるほど。


太平洋方面においても、事情はまったく同様であって、アメリカ軍が、欲する島ならどこでも 任意に攻撃しうるようになったのは、1944年も半ばすぎ、日本敗戦のやっと1年ほどまえであった。この頃になると、当時、世界のただ一つの経済超大国アメリカの実力はフル回転をはじ め、日本との戦力比は、25倍から30倍くらいにはなっていたろう。エセックス級の航空母艦は続々と進水し、飛行機月産は1万機と、当時にあっては、驚倒すべき数字に達していた。


はー。


日米の戦力に天地ほどの懸隔が生じた時点においてすら、アメリカ軍は苦戦をした。 フィリピンにおいては、もう少しで大和の巨砲のためにマッカーサー司令部をふっ飛ばされそうになり、沖縄においては特攻機の攻撃に苦しみ、一時、撤退を考えたりしたほどであった。 それ以前といえば、「物量の国アメリカ」といえども、島伝いの作戦がやっと遂行できる程度であった。このことは、戦前においては、多くの人にその存在さえ知られなかったソロモン部島 の攻防に、2年の歳月がついやされたことだけを見ても明白だろ。


そうだったんですね。


十分に戦争を研究することなしに平和はありえない。


ほー。


現在では、戦争などは口にすることさえはばかることとされ、軍事研究の必要性などを提唱し ようものなら、平和の敵、戦争屋とののしられる。このような戦争アレルギーは、戦後日本の特産物であって、軍国日本が、1945年8月15日の終戦を転機として平和国家に変身した結果である、と思われがちである。


ちがうんですか?


戦前の日本国民も戦争に関してはほとんど無知であった。その戦争音痴ぶりについていえば、ある意味では、戦後よりもひどい。あの大戦争をひきおこし、敗戦にひきずりこんだ元凶こそ、実に、日本国民におけるこの戦争音痴なのである。


そうなんですね。


大東亜戦争勃発40周年。 終戦後36年もたってまだ日本人は、あの大戦争に対する本格的研究をスタートさせていない。


第一次大戦が終るや否や、イギリスもドイツもフランスも、そしてほんのちょっと参戦しただけであったアメリカさえも、この大戦争の研究を始めた。それも、個人レヴェルにおけるちゃちなものではなく、大規模な本格的なものだ。


ほー。


クレマンソーは、「800万の人命と4千億ドルの戦費をついやした大戦争だ、これを徹底的に 研究しつくさないほどの浪費は考えられない」といったが、これは欧米列強首脳の共通の感慨で あろう。すなわち、過去の大戦争をあますことなく研究しつくしてはじめて、平和への道を模索することができるのである。


ほー。


日本人の戦争音痴と軍事アレルギーは、戦前すでに病こうこうに入っ た観があり、また戦前の日本に、真に軍国主義者と呼べる者など一人もいはしなかった。


ほー。


1960年の安保騒動においては、暴徒は国会議員にひきいられて国会議事堂に乱入し、アメ リカはじめ諸外国は、革命の前夜かと思った。全共闘の闘士をはじめ、学生、労働者は、命がけで運動に挺身し、 運動が挫折すると、 大きなフラストレーションをあじわった。安保体験の有無によって人間の評価をきめようとする者さえ現れたほどだ。


ほー。


それでいて誰も安保について何も知らない。 安保の条文を読んだ者さえ、 ほとんどいない。


そうなんですか?


ここまではっきりといいきると、怒る人もいるだろう。少なくとも、いいすぎだと思う人」 は多いにちがいない。そこで、右の主張が間違いのないものであることについて、ぬきさしのならない証拠をいくつか挙げておこう。


お願いします。


まず第一に、「安保反対!」といっても、一体、何に反対なのか。安保の存在そのもの に反対 「 なのか、安保の改正に反対なのか、あるいはその双方にか。同じく「安保反対」といっても、安保の存在に反対であることと、安保の改正に反対であるの とではまったくその意味を異にする。しかも当時、「安保反対」を絶叫する人々であって、この 区別を明確にした人は、学者も、ジャーナリストも、国会議員も、その他の人々も、一人もいなかった。いまにして思えば、不思議というか奇妙というか、解釈の仕様もないことであろう。


ほー。


安保反対運動の昂揚絶頂に達するのは、野党の反対をおしきって、野党欠席のまま自民党が単独採決を強行したことにあった。が、ここで決められたのは、安保の締結でもなく、また、その廃止の拒否でもない。安保の改正なのである。そのための単独採決こそ民主主義を否定するものなりとして、安保反対の群衆はたちまち暴徒化したのであったが、これでみると、彼らの主張は、安保そのものへの反対ではなくて、安保の改正だけへの反対か。安保の存在を承認したうえでその改正にだけ反対するということは、日本人の立場としてはありえないのである。その理由は、誰が見ても明らかに、岸内閣による安保の改正は、それ以前にくらべて、日本の立場をより有利にするものであるからだ。


そえだったのですね。


そうだとすれば、「安保反対」とは、安保の存在そのものの拒否と解釈されなければならないのであるが、こう解釈しても、安保反対を主張する人々の立場は、まことに珍妙なものとならざるをえない。


ほー。


安保はなにも、1960年、岸内閣によって締結されたものではなく、すでに1951年、サンフランシスコ講和条約とともに吉田内閣によって締結されたものであり、その後もずっと存続する。ゆえにもし、安保の存在そのものに反対というのであれば、この間ずっと安保反対の運動は継続していなければならないはずである。


そうですよね。はいはい。


日本軍は、かつて、こんな気違いじみた作戦をしたことがあった。インドネシア侵攻作戦とマ レー侵攻作戦である。インドネシアは日本と地続きではないから、陸軍部隊は、とうぜん、輸送船に乗って出航する。この輸送船団を軍艦が護送してゆくわけだが、その兵力たるや、四十年後の今日といえども、 せんりつ 戦慄を禁じえないものがあった。第十六軍ほどの大軍を輸送してゆくというのに、旗艦は、軽巡洋艦五十鈴で、あとはみんな駆逐艦以下これが専門家たる海軍軍人の考えることかと、正気を疑いたくなる。


なるほど。


チャーチルは、英国の旧戦艦R型 (ロイアルオークなど頭文字がRではじまる五隻の戦艦)を極東に派遣することに反対して、「これらの旧式戦艦は、海上で日本の新戦艦に遭遇したとき、逃げることも、有効に戦うこともできないであろう。それらは、浮かべる棺桶にすぎないのだ」といって、その代わりに、新戦艦ブリンス・オヴ・ウェルズと高速戦艦レパルスの極東派遣が決定され る。新戦艦と旧式戦艦の戦力比を極論すれば、チャーチルの言のごとくなる。これは、専門家の正論だといってよかろう。


ほー。


戦争はすべて、国際紛争解決のための一つの手段であるから、国際紛争なくして戦争など起こりようがない。


ほー。


もし外国が日本に攻めてきたら白旗を掲げて降伏せよ、と主張する。が、このことは、戦争の論理からしてありえない。


ほー。


例えば「日本がソ連に降伏しても戦争は終結しない」ということである。なんとなれば、もし、ソ連が日本占領を強行したとすれば、そのことは、米ソ間に大きな国際紛争を惹起させるであろう。


そうですね。


アメリカがソ連の日本占有を見すごすことはありえないから、日本がソ連に無条件降伏すればただちに、アメリカ軍の攻撃にさらされることになる。つまり、戦争が終結するどころか、より大規模な戦争の幕あきになるだけのことではないか。


たしかに。


この点、第二次世界大戦のつもりでいると、とんでもないことになる。日本人は、戦争というと必ず第二次大戦を思い出すが、この次の戦争は、ガラリと様相が変わってくるのだ。この前の大戦においては、日本が連合国の主敵の一つであって、最後まで抵抗した。だから、日本降伏と同時に戦争は終わった。しかし、この次の戦争においては、日本は主敵ではない。だから、日本が降伏したからといって、それによって戦争が終わることはありえないのである。


ほー。


ところがどうだ。防衛問題を専門にしているはずの人々が、さんざんにふりまわされてしまった。たとえば、「非武装中立」なんていってみたところで、その結果がどうなるか、誰も考えをにつめていなかったのであった。無責任さもここまでくるとまさに犯罪的である。


ほー。


というのも、結局、戦争は国際紛争を前提としないで、ただ何となく起きるものであると盲信するからなのであるが、このことは、いくら強調しても、しすぎることはない。


ほー。


ソ連軍北海道侵攻説は決してありえない証明として、戦争は国際紛争解決の手段であることを想起するならば、北海道をめぐって、日ソ間にいかなる国際紛争があったか いかなる国際紛争も存在しないのである。それにもかかわらず、ソ連軍が攻めてくるとすれば、ソ連軍はただなんとなく攻めてくる、としか考えられない。


ほー。


日本には、未 だに地政学の信奉者が多く、ソ連は膨張主義の国であり、征服欲の権化のように考える者があとをたたない。この主張を要約すると、ソ連という赤熊が寒い寒いといって、不凍港をもとめて南下してくる、というにつきる。地政学は、すでに時代おくれの学問であり、いまでは、とうてい社会科学とは呼べない代物ではある。しかし、不幸にして現在のわが国には、右のような赤熊物語の信奉者があまりにも多い。 有史いらい、国際紛争を前提としないで生起する戦争は、まずない、といってよい。しかもこの傾向は、近代社会においては決定的なものとなり、現在においては、国際紛争なくしては、絶対に戦争は起きないと断定しても、少しの誤りもない。


ほー。


では、アメリカがソ連に、対日攻撃の了解を与えることはあり得るのか。さらにすすんで、米ソが共謀して日本を攻撃することがありうるのか。


はいはい。


私にいわせれば、このことは十分に起こりうることで、日本人が真に恐怖すべきは、まさにこの場合であり、この場合にこそ、確実に日本は滅亡する。未曾有の繁栄を誇る大いなる日本も三つに裂け、世界最終戦争の日は来るのだ。


なるほど。


昔の日本は、豊葦原の瑞穂の国と誇った。米こそ、日本のシンボルそのものであった。他方、アメリカをシンボライズするものは、自動車と鉄鋼であった。昔の日本は、この2つに関して あしもと は、アメリカの足許にすら及ばなかった。戦前の日本で自動車年産が一番多かった年が昭和15年、年産約4万6千台であった。現在の日本なら、1日の生産量に匹敵する数であり、当時とい えども、アメリカの1分の1にも足りない数であるが、当時の日本人はむしろ、「ああ日本も1年に4万6千台も自動車が作れるようになった」といって感歎久しゅうした。 ところが現在の日本は、鉄鋼も自動車も、アメリカのお株を奪い、または、奪いつつある。


ほー。


それでいて、現在日本の米は、カリフォルニア米とくらべて、味も栄養もはるかに劣り、価格 は三倍もする。米で誇った瑞穂の国も、いまでは、米ではアメリカにはるかに劣る。それだけで はない。味噌も、醤油も豆腐も、日本人の食卓に欠かせない食品の原料たる大豆のほとんどがア メリカ生まれだ。魚でも、マグロはボストン直輸入といったありさまだ。 日本とアメリカとは、すれちがったようでもあり、これほどまでも密接化し一体化したようでもある。


ほー。


レーガン政策のエッセンスを一言で要約すると、1933年にはじまったルーズベルトのニュ ーディール以来のケインズ的政策を一切やめ、それ以前の古典的資本主義の時代に帰れ、ということである。


ほー。


彼は、現在のアメリカの苦悩はすべて、アメリカが経済における自由放任主義に過度の規制を もうけて、資本主義的競争のよさを十分に発揮できなくなったことによると考える。だから、経済政策の二つの柱は、思い切った支出の削減と減税においているが、これこそ自由放任主義そのものズバリではないか。


ほー。


レーガン・アメリカに「反革命」の嵐が吹き荒れている、「夜警国家」と い う名の猛威が。


夜警国家とは何ですか?


「夜警国家」とは一口でいえば、国家は、対外防衛と国内治安 の維持、個人の財産・自由の侵害の除去など、必要最小限の任務のみに自己の役割を限定し、そ の他は自由放任にせよ、という国家観である。


ほー。


とすれば、国防の充実が、国家の最大の任務の一つということになろう。現在、レーガンが強いアメリカ」を標榜して、大軍拡のパワーゲームに突入しようとするのも、その論理に立てば、まさに当然すぎるほど当然のことなのだ。


ほー。


他方、「夜警国家」の定義からすれば、経済的には政府のなすべきこ と は、実に「何もしないこと」になる。その論理によれば、資本主義社会における自由競争市場は、外部から何も手を加えられないときに、最大の効果を発揮するというわけだ。


ほー。


誰も彼も私利私欲の追求に専念し、自由に競争している結果として、「見えざる手」に導かれ、 「最大多数の最大幸福」が達成される(正確にいうと、パレート最適が達成される)ことになる。 そして、いまやレーガン・アメリカは、古典的資本主義の良き時代、大部分の経済学者が考えたところに戻る。


ほー。


このような市場 機 構に対する予定調和的信仰こそ資本主義イデオロギーであり、大多数のアメリカ人は建国以来、固くこのように信じこみ、今でもその信念を持っている人が多いのだ。


そんな感じがありますよね。


資本主義イデオロギーが、空気のようにあたりまえなのがアメリカ社会である。 一例をあげれば、アメリカにケインズ経済学が入りにくく、ルーズベルトのニューディール政策が、なかなか効をおさめえなかったのもこの理由による。


ほー。


だから、ルーズベルトが不況克服、失業救済のために次々と打ち出した画期的政策の多くは、 最高裁で違憲判決を下されてしまって、日の目が見られない。そこでルーズベルトはやむなく、最高裁判事を増員し、自分のシンパを送りこんで、その結果やっとニューディール政策の実現が可能となったほどだった。 


ほー。


ところが、戦後、状況はガラリと変わる。経済政策はケインズ一色に塗り変えられてしまう だ。ニクソン、フォード、カーターに至るまで、一人として例外なく、アメリカの歴代政権の済政策には、ケインズ理論が大きな影を落とすことになる。


ほー。


この歴代のケインズ的政策に真っ向から異を唱え立ちむかうのが、レーガンであり、ストックマン予算局長官である。いわゆるケインズ革命の成果を“非アメリカ的。 の一言で一切すて去 り真のアメリカ、古典的な資本主義イデオロギーに帰れという。そしてその理論武装としての 「夜警国家」論。まさに反革命的な代物そのものだが、それが大方のアメリカ人の支持を集めていることは、こ こでいくら強調してもしすぎることはない。


ほー。


では、真のアメリカとは何か。それは、自助の精神に基礎を置く、経済的に自立しうる人々がつくるアメリカである。アメリカはブロテスタントのつくった国であるが、プロテスタントは、経済的に自立してはじ めて神ので正しい人であるとする。職業は神の召命であり、職業に精をだすということは マミート 隣人愛の実行にほかならない。その結果として、人は必ず富み栄えることになる。これが神の意この点において、清貧を尊ぶ日本人とは根本的に考え方を異にするからくれぐれも注意する必要がある。


ほー。


極言すれば、プロテスタンティズムにおいては、貧乏は罪なのである。まして、経済的に自立 できない人間なんて、とんでもないことだ。重要なことは、レーガンが、このアメリカ人の正統的な意見が通らなくなったところにアメリ カが真のアメリカでなくなった理由があると考え、支持者は、それ故にこそ彼を支持した、という一点である。


ほー。


軍事費以外の予算は、ストックマンにねらいうちにされ、とくに彼が目の仇にしているのが、福祉予算だ。今や、この少年のような予算局長官は、福祉予算の削減こそ、真のアメリカ再生の だとの意気に燃え、社会福祉の聖域。 に土足であがりこんできたのだ。しかも「夜警国家」の前提に立てば、これは社会科学的にも首尾一貫したことなのだ。レーガ ン は、大軍拡など「強いアメリカ」を強調する一方、大減税 や 福祉予算の削減など「小さな政府」への回帰を約束する。素人の考えでは、何だか矛盾するように見えるが、これも「夜警国 家」論に立てば、実は同じコインの裏表にすぎないことがわかる。


なるほど。


レーガン政策の経済理論を解説すると、軍拡と大幅な減税を断行すれば、有効需要の増大と財政赤字の創出によって、インフレが昂進する恐れがある。これを押さえこむために、軍事費以外の福祉予算などの大削減が、焦眉の急となる。そして、この政策が成功の暁には史上最強の“レーガン帝国"が現出するはずだ。私はこんな壮大な実験を断行しうるアメリカの、若々しい底力に目をみはっている。


ほー。


日本の奇跡を支えてきた戦後史は例外中の例外の連続であり、それはアメリカの決意によって維持されているのだ。だから、アメリカが決意を変更すれば、一朝にして、日本は崩壊に向かってなだれをうってしまう。


はいはい。


1980年の4月24日夜。例のイランの米大使館人質事件を実力で解決するため、アメリカが奇襲作戦を敢行して大失敗に終わった。


はいはい。


日本の世論は平和的な交渉で事態を打開しなかったアメリカの行動に、厳しいものであった。


はいはい。


欧米の世論は、アメリカの実力行使そのものに関しては、あまり問題としていない。


ほー。


欧米の新聞の論調は極右から極左まで、一致して重視するところは、結果がみじめな失敗に終わったことであった。


なるほど。


もう一つの例。


はい。


1976年エンテベ空港人質奪回作戦である。


ほー。


フランス旅客機が、パレスチナ・ゲリラにハイジャックされた。ユダヤ人からなる百二人の人質をめぐって交渉の最中、イスラエル軍の特殊部隊がエンテベを急襲し、ゲリラと激しい銃撃戦の後、これを全滅 させて人質を救いだしたものだ。イスラエル側は、人質救出のためだからこれは合法であると主張。アフリカ諸国のなかには、イスラエルを非難する国も多かったが、ここで問題とされたのは、国家主権 の重大な侵害ということであって、実力行使そのものではない。


なるほど。


日本なら、とてもこういうわけにはゆかない。ハイジャッカーを射殺した警官を殺人罪で告訴するなどといきまく弁護士まで現れるお国柄である。


はー。


これに対し、エンテベ空港でゲリラを射殺した特殊部隊の兵士は、イスラエルでは英雄であっ た。イスラエル人人質無事救出の報に接するや、国民はロ々に歓声をあげ、見知らぬ同士が抱きあって嬉し泣きにむせぶシーンを国中いたるところで現出させた。


ほー。


アメリカの真の姿を知りたければ、イスラエルに行くべきだ。


ほー。


今でも旧約聖書が多くのアメリカ人に愛読されているというだけの意味ではない。旧 約聖書の構成原理が、現在のアメリカの規範、原理・原則を作りあげるうえで、実に大きな役割を演じている。


ほー。


イスラエルの首都エルサレムは、アメリカの首都ワシントン同様、国際空港がない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教共通の聖都でもあるエルサレムに行こうとすれば、ニュ ーヨークと同様、すべての国際線が発着するテルアビブにひとまず降りざるをえない。


ほー。


これはまさしくワシントンとニューヨークの関係そのもの。


ほー。


政治の中心エルサレムが二十万人足らず。一方、経済の中心地テルアビブに約百十万人もの人が住んでいるのも、ワシントンとニューヨークの関係に似ている。


ほー。


アメリカ人とイスラエル人に自明の理として理解し合えて、日本人にはまるで理解できない致命的な一点。それは、「法」という考え方だ。明治以前には、日本では法といえば仏法(仏教)をあらわした。いわゆる国法にあたるものは、律令などといったが、それもあまりよく機能してはいなかった。明治以後には、外見上は法制を整えたが、欧米流の法概念ほど、日本人の体質にとって異質なものはない。つまり、日本には ユダヤ教的伝統がまったく欠如しているからである。というよりも、日本人の行動様式としての いわゆる「日本教」はユダヤ教と、まったく正反対だといったらいいだろう。


ほー。


イスラエルの法を守らない者は神との契約を破ったことになり(または、初めから契約を結んでいない)、神との縁は切れる。そんな奴はもはやユダヤ人ではなくなってしまい、人間と取り扱ってもらえなくなることを意味する。そして、その者を生かそうと殺そうと、共同体 の中のメンバーにとって、どうでもいいことになってしまうのだ。重要なのはただ、共同体内部の人々だけである。これがユダヤ教の根底にある考え方だが、この考え方が、欧米社会、とくに人造国家アメリカ における法概念の根本に位置しているのだ。


ほー。


冒頭で論じた二つの人質救出作戦で、なぜアメリカ人とイスラエル人が共通の行動をとったのか、お分かりいただけると思う。


なるほど。


西部劇の1シーンに、保安官事務所に貼り出された大きな人相書き『Wanted; Dead or Alive $5,000』。アウトローは誰が殺してもよく、殺しても大枚の賞金が貰えるというものだが、それは社会の根底に、"アウトローつまり法を守らない者はもはや人間とはみとめられない"という考え方があるからだ。こんなことは日本ではとうてい考えられない。


ほー。


日本では、日本の法を守らない人間は日本人でなくなるという発想はまるでない。 無法松の一生なんていっても、どんな無法な松五郎でも日本人であることにかわりはないのである。


なるほど。


とくに強調したかったのは、典型的な イスラエル、ユダヤ教のネガこそアメリカだという点である。


ほー。


レーガンがアメリカ経済に空前の痛苦な大手術を行うため、福祉予算の徹底的な ち切りと二三パーセントもの対外援助費大幅削減をしようとしているのであるが、驚くべきこと にレーガンは、「経済再建計画」のなかで、対イスラエル援助だけはビタ一文減らさない と言明している。


ほー。


アメリカ国家をつくり上げたプロテスタントが拠って立つものは新約聖書であるが、この新約 聖書は宗教書としては、なんともとてつもなく奇妙な本なのである。


ほー。


旧約だと、 ノアの契 約、アブラハム契約、シナイ契約、ナタン契約……等々、神と人間との間に、内容が明示された特定の契約が結ばれる。


ほー。


新約には契約の明示的内容となると、どこにもない。内容が明示されていない契約。極端な話、新約聖書は、実は新約でも何でもなく、無約聖書だといえる。


ほー。


ところがマックス・ウェーバーは、パウロの伝道の画期的意味について、「パウロの伝道の最 重要な精神的業績は、一方においては、ユダヤ人の聖書をキリスト教の書として保存しっっ も、他方においては、旧約聖書の倫理のなかでユダヤ人独特の賤民的状況に結びついているもの を一切廃棄してしまったことである」


ほー。


つまり、旧約を聖典として採用することによってはじめて、キリスト教は、法、規範、戒律な どの、宗教にとって不可欠な用具が与えられたのだが、もちろん旧約をそのままにしておいたの では、世界宗教としてユダヤ人以外の人々に信仰されるわけにはゆかなかった。 これでは困るので、旧約のなかのユダヤ的な特殊な要素を全部抜きとってしまった点、ここにキリスト教が世界宗教になりえた所以があるのである。


なるほど。


コチコチの宗教国家アメリカの本質は、新約を調べただけでは、でてくるはずのなかったものであり、これらは すべて、ユダヤ的旧約的諸概念であったのだ。


ほー。


世界最強の国が仔猫のようなイスラエルに深い敬意を表さなければならないのも不思議ではない。ところが、アメリカの裏側に潜むこのイスラエルの原理を絶対に見抜けなかったのが日本の 戦後史のすべてだった。 いまや日本はアメリカに追いつき、追い越しつつあると思っている日本人も多いが、アメリカの真の偉大さ、真の恐さを理解していない。


なるほど。



イスラエルも日本も、過去において鎖国していた。しかも、それが両国を今日あらしめている。


ほー。


日本人は1639年以来2百数十年間、日本列島というシマに閉じこもり、ユダヤ人 は何手年もゲットーというシマを引きずって世界中を流浪の旅をしながら、鎖国を続けた。ユダヤ人も日本人も禁欲的で自己犠牲の精神が強く、教育熱心で知的水準がきわめて高いのであるが、それというのも鎖国の賜物である。


ほー。


問題なのは、日本もイスラエルも、社会学的には、決して過去のことではなく、現在も鎖国国 家であること。このことは両国に共通であっても、アメリカとは根本的に違う点である。


ほー。


私の知人で、慶応の経済学部を出た男がいる。彼はその上、渡米してコロンビア大学の大学院 で修士号までとり日本の某大商社に就職した。ところが、これが彼の一生の不覚。いつまでたっても通訳扱いで、絶対にエリート・コースに は乗れないのである。


ほー。


つまり、今や日本で、会社や官庁でエリート.コースに乗るための条件は、

(1)日本人であること

(2)日本の一流大学を出ること

(3) 日本で本社(庁)採用となること


ほー。


子供が高校に入る年頃になると必ず日本に帰してよこす。国際人発成のチャンスをみすみす 透がしてしまうようなものだが、外国の大学でも出ようものなら、日本では一生エリートにはなれないからである。


ほー。


その点、明治時代、洋行して外国の大学を出た者が、大いに重用されたこととはまったく異な る。しかし、その後だんだん、徳川時代に逆りしていって、今では完全に頼国状態になってしまった。


ほー。


日本の道路には、「暴走は、しない、させない、許さない」式のお説教がいやというほど出て くるのに、英語では満足な表示すらない。外国人には不親切このうえないのだ。駅なども新しくなればなるほどひどい。地下鉄の新しい線など、駅名のローマ字添え字もなく なっている。ローマ字の路線地図もめったにない。これでは、外国人は、東京都内すら自由に旅行はできまい。新幹線だけで英語のアナウンスしても焼け石に水。交通に関する情報は、体系的にできていないと役に立たず、場所によってあったりなかった りというのでは、ないも同様なのである。要するに現在の日本は、江戸時代のように外国人は日本に来るな、といっているのだ。


ほー。


イスラエルにおいては、このようなことはない。ながらく外国にいたユダヤ人が帰国すると、大変に歓迎され、もとからいたユダヤ人と差別されることもない。


ほー。


これらの点において日本とは根本的に異なり、アメリカ社会と同様である。ところがである。イスラエルは日本同様、鎖国的な前近代国家であり、アメリカのような近代国家とはまったく異なる。それというのは、イスラエルが、未だに、宗教共同体国家であり、そして、この宗教のもつ意 味が、アメリカとは大きく異なるからだ。


ほー。


ユダヤ社会にはある規範の二重性。


ほー。


『ヴェニスの商人 」のシャイロックのように、一ボンドの人肉まで要求するような因業な高利貸のイメージがあまりにもこびりつきすぎている。


はいはい。


ところが申命記やレヴィ記では、金を貸して利息をとることをはっきり禁止している。 それなのに、敬虔なユダヤ教徒が高利貸として大儲けをしても仲間のユダヤ人に咎められない。


ほー。


理由は、ユダヤ教の律法は、ユダヤの宗教共同体の中でのみ通用するものだからである。 利息をとって悪いというのは、仲間のユダヤ人同士では悪いという意味であって、ユダヤ人以外の者からとることは、少しも差し支えはないのだ。


ほー。


これが私のいう二重規範ということの意味である。この点において、ユダヤ社会は著しく前近代的であって、日本社会と大変によく似ている。ユダヤは、規範万能主義の国であるが、その規範たるや、普遍性をもたないのである。


なるほど。


イギリスやアメリカなどの社会においては、資本制 経済の成立のなかで、伝統主義的共同体は完全に崩壊し尽くされた。それがほぼ完全な型で残っているのが、ユダヤと日本である。


ほー。


アメリカがイスラエルに深い敬意を表していることは前に述べたが、一方で、アメリカにおける反ユダヤ主義 (Anti-Semitism)が強力なのはそのためである。 ハーバード大学でさえ、ユダヤ人教授の数は制限されていて、ある一定数以上は決して採用されない。つまり、元来、人種平等の国であったはずのアメリカで、こんなに差別される理由は、 ユダヤ人が、自分達だけで閉鎖的な共同体を作り、その宗教にも規範にも普遍性がないからだ。 近代社会のチャンピオンたるアメリカとしては、これではどうしても困るのだ。


ほー。


イスラエルに憲法はない、といえば、今どき憲法のない国家があろうか、と驚く人も多いに違 いない。日本人なら、国際社会であまりにもみっともないから、みかけ上だけでも無理しても憲法をつくろうと考える イスラエルでも、憲法を作ろうとする動きはあるのだが、それがどうしてもできない。その理由は、イスラエルが、 未だに神政政治の国だからである。


ほー、


それだけでなく、イスラエルの民法は、未だに宗教法であり、欧米のような近代国家の場合とは違って、世俗法としての市民法ではない。イスラエルでは社会のすみずみまで宗教法が支配していて、しかもその宗教に普遍性がないと なると、憲法など制定できようがない。憲法とは主権者と民衆との間に結ばれた契約であるのに、神のみが絶対であるという ような神政政治の国には、主権者の概念は生まれようがない。神をさしおいて、人間どもが勝手 に契約を結んだとしても、そんなものが最高の法でありえようがない。したがって、国家の最高の法である憲法など生まれるわけがない。


なるほど。


ごれが国家の近代化のためにも、経済活動をする上でも、どれほど大きな妨げになっているか。


なるほど。


この点「憲法」と呼ばれるものは存在しても、少しも機能していない日本と比較するとまことに興味深い。


ほー。


日本人は、政府が自衛隊などという違憲な戦力を作るから憲法が機能しなくなってしまったの だと、短絡的に思いこんでしまう。日本で憲法が機能しない理由は、憲法は世俗法であって宗教法ではないという認識が日本人には絶無だからである。


ほー。


つまり憲法は世俗法だから人間の外面的行動のみを規定し、内面の宗教、イデオロギー、など は少しも規定するものではありえないのだ。憲法は政府などの国家権力だけを取り締まりの対象とし、個々人の行動を取り締まるものではないのである。


ほー。


だから日本では、憲法が個人の内面にまで侵入しても、誰もこのことをあえて奇としない。


ほー。


前近代社会においては、人間をとりまく社会もその規範も、人間の力をもってしては動かしがたいさだめ、のようなものと考えられていた。これを徹底的に打破したのが、近代社会の革命的な意義で、すなわち社会も規範も人間が作っ たものであるから、人間によって変えることができるという考え方である。


ほー。


こうした社会契約説を最初に実現して誕生した近代国家が、アメリカというわけだ。 社会契約国家とは、単に国家組織を人々の合意に基づいて作りあげたというだけの意味ではく、そうした社会や規範そのものを人々の作為によって作り上げていく考えを信ずるかどうかということがポイントだ。アメリカはそのことを明確に意識し、ここに人類は初めて自らの選択によって、国家を作ったことを宣言したのである。


そうなんですね。


前近代的な"鎖国国家"イスラエルを見てみよう。パレスチナの地に新しい国家を作りあげたなどといっても、そのアイディアそのものは自らの 作為によるものではなく、アブラハム、モーセ、ヘロデいらい、ユダヤ人が何回も試みてきたことだ。まったく新しい発想によって国を作り、規範を定めるということは、彼らにはできない。


ほー。


現在イスラエルの経済は死にかかっている。というよりも、アメリカの経済援助というカンフル注射がないと、とっくに死んでしまっているといったほうがよい。この経済危機の元凶は、大きすぎる軍事費負担だ。


ほー。


どんな新しい実験でも可能なのがアメリカだ。アメリカはいつでも新しい秩序を自らの決断によって作りあげることができる。アメリカの強さ、恐さが実にそこにあるのだ。


なるほど。


科学的議論の特色は、体系的分析によって常識では知られないような情報を提供するにある。アメリカーと日本が揃いも揃って、国際政治音痴だ。


ほー。


よく80年代は危機の時代であり、国際政治は破局に直面するといわれるが、この危機を抜きさしならぬものにしている者こそ、実にこの時代の立て役者、日本とアメリカだからである。実力施1とぬ2の国が国際政治の初等論理が分からないまま、太平洋をはさんで 死活の抗争に入ろうとしているからだ。


ほー。


例えばキッシンジャーはかつて「アメリカ人には国際政治とはどういうものか少しも分かっていない。だから俺が教えてやるのだ」といったが、ヨーロッパ国際抗争の荒波にもまれてきた苦 労人の目からすると、アメリカ人なんか赤ん坊のように見えてしまうのではなかろうか。


そうなんですね。


大統領フランクリン・ルーズベルトでさえ例外ではないのだ。彼は第二次世界大戦末期の1945年2月ヤルタ会談において、ソ連対日参戦という老巧なるスターリンの威嚇に屈し、みすみす千島・樺太をソ連に引き渡しただけでなく、満州にまでソ連軍を引き込んで中国せっか(赤化)の拠点を作ってしまった。


そうなんですね。


ヤルタ会談こそは、ルーズベルト外交大敗の記念碑として人々に記憶されるところであるが、 彼の失敗は対日政策にとどまらない。ヨーロッパ政策においてこそ、アメリカにとって致命的な失策がなされた。


ほー。


ヨーロッパに第二戦線を作れというスターリンの要求に対し、チャーチルはバルカンに作ることを出張した。もちろん、 スターリンは激しく反対する。なだめ役にまわったルーズベルトは何とスターリンの要求を支持してしまったのであった。


ほー。


単細胞的アメリカ人たるルーズベルトには、敵は敵、味方は味方、どうしてもこれ以外には見 えようがないのだ。激動する国際じょうり(場裡)にあっては、敵味方などひっきょう(畢竟)、一時の仮の姿、いったん状況が変われば、昨日の敵は今日の友となり、今日の同盟国も明日は最大の敵国となることさえ十分にありうるということを、少しも理解していなかったのである。


なるほど。


これに反し、大英帝国最後の大宰相チャーチルはそうではなかった。彼は、日独の命数はすでに尽きていると読んでいた。そうなれば戦後最大の敵はソ連である。いまならばソ連の力はまだ 比較的弱く、英米の力は圧倒的である。今のうちにこそ、ソ連に対して少しでも有利な地歩を占めておくことだ。


なるほど。


そのためにはバルカンにみそぎ(禊)をうちこんで南下するソ連の勢力を東欧において喰い止めることこ そ肝要である。もっとも重要なのは、敗戦ドイツをそっくり西側にとり込むことだ。これに成功すれば、戦後の東西対立において、西側の強大な力の前に、ソ連は手も足も出ないだろう。 チャーチルはここまで読みこんでいたのだが、ここのところがとどうしても国際政治音痴のルーズベルトには通じなかった。


そうだったんですね。


スターリンの執拗な要求によって、連合軍はついにノルマンジーに大軍を上陸させることになるが、こうなった以上、連合軍のなすべきことは、押して押して押しまくり、一日も早くドイツ全土を占領して、ソ連軍には寸土をも渡さないことであった。


なるほど。


ところが、このことすら、アイゼンハワーを始めとする米軍首脳には少しも分かってはいなかった。他方、ヒットラーは、絶望的状況下においても、 少しも希望を失ってはいなかった。彼が思うに、英米の指導者は考えるに違いない、次の敵はソ連だから、対ソ防波堤としてわがドイツを利用するのが得策だと。ここに米ソを分断してドイツが生き残れる道があると計算した。


ほー。


だからドイツは、英米に対する無条件降伏は早くから承諾しようとしたが、対ソ降伏だけはどうしても認めようとしない。


なるほど。


アメリカにとって、こんなうまい話はない。この条件を呑めば、悪くいっても、ドイツをそっくり頂けるのだし、うまくゆくと、独ソを戦わせて高見の見物ができるのだ。


なるほど、なるほど。


そして、英米の今後の戦略としては、ドイツがあまり強くなりすぎてソ連を滅ぼしそうになっ たら、こんどは対独援助を止めて対ソ提助を始めるのだ。チャーチルは、おそらくそのつもりであったろうが、老・英国の首相たる彼は、戦争の最後の 時期には、ダウニング十番街にはいず、後を継いだアトリーは国際政治の分かる男ではなかった。


ほー。


いずれにせよ、ルーズベルトには、あい戦わせる(ふたりが争っている間に、第三者に横取り され、共倒れになること)という国際政治上の初歩的理解力すらなかったということである。


なるほど。


では、日本はどうか。同じく第二次大戦時に例をとれば、 その "国際政治の低能児"ルーズルトにさえさんざん翻弄されたのが日本である。


そうですよね。


1941年11月26日、日米交渉の最後の局面において、国務長官ハルは、突然、青天のへきれき(霹靂)の如く、日本にハル・ノートを突きつける。支那における日本軍はみんな引き上げてしまえ。


はい、はい。


これを聞いた日本国民は烈火のごとく怒り、日本国中、蜂の巣をつついたように大騒ぎとなった。ところが、こんなものはまったく意味のないブラフにすぎないから気にする必要のないものだとは、誰も気づかなかった。


ほー。ほー。


いかにも、ハル・ノートなど、受け入れられてしまったら、ルーズベルトのほうも困るのだ。 こんな無理難題を日本に呑ませた以上、代償として、当時とられていた石油禁輸を始めとする対 日経済制裁はことごとく解除しないわけにはゆかないだろう。事実、ハル・ノートは、原則をうたっているだけで細目に関する要求は何もないのだ。こんな ものを受け入れようとも、国際的取り決めとしては無に等しい。


ほー。


細目に関する規定のないハル・ノートを呑めば、つぎに必ず、日本軍撤退の日取りだとか何だとか、細目に関する交渉に入る。ここがつけめだ。なんだかんだとこねられるだけの理屈をこね て交渉を引き延ばす。


ほー。


ハル・ノートは日米間の取り決めだから決して日支間の関係を拘束するものではありえない。 また、撤退の日までの日本軍の軍事行動を制約するものでもない。


なるほど。


そこで、一方においてアメリカに対しては日本軍全面撤退の原則を認めておきながら、他方において、電光石火、全力をあげて重慶軍に壊滅的打撃を与えて既成事実を作ってしまうのだ。


ほー。


こんなことをすれば、もちろんルーズベルトはかんかんになって怒るだろうがどうしようもな い。論理上、日米間の取り決めに違反するものでないから、日本を違約者として咎めることはで きない。国国際政治ではここがポイントだ。


なるほど。


重要な点は、アメリカは、日本が中国の領土保全を約束した9ヵ国条約をじゅうりん(蹂躙)し、非戦闘員を殺戮することによってヘーグ条約に違反している、といって怒ったのだ。


はい。


石油を止めてしまったというのも、日本軍の仏印進駐の事実そのものよりも、アメリカの了解なしに勝手にやってしまった点を問題としていたのだ。


なるほど。


アメリカの国際政治低能ぶりを白日の下に晒したのが、前にも触れたイラン人質事件だ。


ほー。


アメリカ政府が正常な国際政治の能力を持っていたら、解決策はきわめて簡単である。外交官が人質にとられ、イラン政府がその解放のために十分な努力をしてないことが判明した時点においてイランに宣戦して、実力で解決してしまうのだ。


ほー。


ソ連もこれには反対できない。現に、当時ソ連すらイランの行動を非難しているではないか。


ほー。


でも、そんなことをすれば人質が殺されてしまうではないかとの反論もあろう。そのための対抗策は簡単だ。 アメリカは、イラン大使館員を監禁し、それでも足りなければ、イラン留学生をもとらえてし まって、これを逆人質として、アメリカ人が一人殺されるたびにイラン人を10人殺すぞと宣言す るのだ。こうすれば、どんなに過激なイラン学生といえども手も足も出まい。


ほー。


これは国際法上認められたふっきゅう(復仇)の権利といって歴史の前例もあり、非難される筋合いはない。専門的にいえば、1949年のジュネーヴ4条約で、傷病者、難船者、捕虜、占領下の一般住 民に復仇することは、一応、禁止されるようになった。が、アメリカ本土は占領地ではないか ら、ビンビンしているイラン留学生に復仇することは、禁止されていない。主権者有利の原則が発動されるのである。


なるほど。


いまやアメリカ経済は大軍拡の経済負担で青息吐息だ。それでも、ソ連の経済危機に比べれば比較にならない。象と蟻ほども違うのだ。ソ連経済は軍備の重圧によって最後の止めをさされか けている。しかも、アメリカの脅威がある限り、軍拡をやめるわけには、いかない。


ほー。


こんな時期におけるレーガンの大軍拡は、自動車事故でのたうちまわっている男をもう一度ブルドーザーでひき直してやるようなものだ。


ほー。


ソ連としては、今や、何が何でもアメリカとの了解に達して軍縮を断行して経済を救わなければならない。


はい、はい。


まるでポーカーだ。 でも、このポーカーはレーガンに有利に展開する。ソ連の手のうちは読まれてしまっている。レ ーガンは大軍拡というブラフをくりかえしつつ、じっとボーカーフェースで待てばよい。


なるほど。


"アメリカ国民よ、福祉の充実はそれからでも遅くない。しばらくじっと辛抱しろ" ーーレーガンの無言のこのラブコールをアメリカ国民が感知したら、レーガン帝国は世界無敵となり、その力の外交の前に、日本など、ひとたまりもないことだろう。


なるほど。


「日本には宗教がない」世界のどの国にもありながら、例外として日本だけの「宗教不在」が、いかに日本を類を絶す る奇妙な国にしているか。


はい、はい。


欧米や中近東社会には「宗教裁判所」というものがある。現在の宗教裁判所とは決してそんなものではなく、習慣・風俗つまり宗教法を異にする人々のトラブルを裁くのが、最大の機能の1つだ。



ほー。


ところが、日本ではどうだ。生まれた時は神社に参拝し、青年時代には無神論で、結婚式は教会、年輩者が若者にする説教は儒教式で、死ねばお寺のお経で冥土へ行くーーこれが少しも異常でないどころか、むしろ平均的日本人の宗教。生活ではないだろうか。


そうですね。


各宗教の違いを明示した教義も意味を持たず、教義の違いから発生する論争も、その論理も存在しなくなってくる。このことが日本における外交不在の究極的な原因となっている。


ほー。


アメリカ人は、中国人も韓国人も、我々と大変に文化的背景を異にするが、語り合うことによって相互理解することができる。しかし、日本人とはこれができない。


ほー。


日本人ほど、話し合いということを強調する民族も珍しいが、ここでいっている話し合い、ということの意味が、まるで違うのだ。


ほー。


日本で話し合いとは、お互いの腹の中を見せ合い、無原則にナアナア、マアマアで、ぎくしゃ くせずいい気持ちになってしまうことをいう。もうこうなると、話し合いの内容など、どうでもよく、ましてそこで契約を確定するなんて、まことに水くさいことになる。 こんなことが可能なのは、日本人の表面上のそれぞれの宗教が、実は宗教でも何でもないからだ。


ほー。


要するに外交とは、本来、各国が与えられた教義の下で、それぞれの利益を最大にするための論争だ。ところが、宗教不在国家。 日本には教義も論争もないから、従って外交などありえようがな い。


ほー。


読売新聞の伝えるところでは、日本政府は対中摩擦を回避するため、レーガンの台灣接近を警告するというのだ。「ソ連の育成が世界的に増大するなかで、ソ連と 長い国境を接する中国を西隅の友好国としてっなぎとめておくことが肝心」なので、アメリカは台湾に接近するな、とは一体なんという了見なのだろう。


なるほど。


日中親善が当面の目的だとしても、ソ連、台湾への途も広く開けておかねばならないのである。それを台湾に振り向いてもみないというのでは、これはもう外交でも何でもない。こんな隣の ミヨちゃんとつき合うような方法で、しゅんげん(峻厳)な国際政治が乗り切れると思っているのだろうか。


なるほど、なるほど。


国内政治と国際政治は論理が違う。


ほー。


国内政治は必ずしも固有の論理を持たないのに対し、外交は、徹頭徹尾、論理的に動く。


ほー。


誰でも外交の論理を会得してしまうと、自由に国際政治を操作することができる。


そうなんですね。


その証拠に、ビスマルク、ディズレーリ、スターリン、ヒットラー等、外交にまったく経験のない者がひとたび城烈きわまりない外交戦場に出陣するや、たちまち百戦練磨の列国外交官を蹴ちらして、自由自在に国際政治を操ったではないか。


なるほど。


ビスマルクなど、フランクフルト駐在大使に任命されるまでは、何と、ボレーシア選出の国 舎不良代議士であった。


そうなんですか!


最近の著しい例がキッシンジャーだ。彼は一介のハーバード大学教授にすぎず、外交の 経験まったくなかった。ズブの素人だ。それなのに大統領補佐官に就任するや否や、たちまち、アメ リカ外交官のすべてが東になっても出来なかったことを一人でやってのけた。例えば、ベトナム 休戦や米中復交などがそれだ。


ほー。


ベトナム問題など前任者ジョンソン大統領をノイローゼにさせるほどで、そのために彼は、大統領選出馬を断念してしまう。ところがキッシンジャーは、この難問を、あっというまに片づける。米中復交では、日本外務省は頭越し外交といってアメリカを恨んだが、これは頭を越されるほうが間抜けなのだ。こんな魔法使いみたいなことができた理由は、彼が、希代の大外交家メッテルニヒの徹底的な研究を通じて、外交の論理を理解していたからにほかならない。


そうなんですね。


その論理とは何か1815年、ナポレオンをセント・ヘレナに島流しにすると、ヨーロッパにアンシャン·レジーム・旧体制が復活した。これは、一方においては、協力してナポレオンを打倒し たイギリス、ロシア、オーストリア、ブロイセンのしこく四国(同盟)と、他方においてはロシアのアレキサンダー1世の提唱による神聖同盟とを軸とするものであった。


そうなんですね。


しかし、神聖同盟にせよ四国同盟にせよ、ナポレオンが暴れまわっている間にこそ協力したとはいえ、これらの列強は、イデオロギーも異なれば利害も対立する。その錯綜すること、目がま わるばかり、複雑怪奇なものだった。



ほー。


メッテルニヒが天才であるゆえんは、この複雑至極なヨーロッパ政局をシステム的分析によっ て理解しようとしたことだ。英露関係といっても、この二国だけを見れば分かるというものでは ない。英仏関係、露塊関係、普墺関係……をすべて適確に考察してのちに理解されうるのだ。


なるほど。


メッテルニヒは、この秘訣を発見することによって、必ずしも列強首座とはいえぬオーストリア首相でありながら、1848年に失脚するまで、33年のながきにわたって、欧州政局を牛耳ったのであった。


ほー。


ところが、この外交のシステム性を全然理解しえないのが、例によって日本人だ。


ほー。


1939年、時の平沼内閣は、独ソ不可侵条約が締結された時、「欧州の政局は複雑怪奇なり」 として、総辞職した。外国が複雑怪奇な行動をしたからといって、いちいち日本の総理大臣が責任をとらなくてもよさそうなものだが、要するに、そのことに関してまったく予測ができなかったために、日本外交の今後の方策が立てられなくなったのである では、当時のドイツの行動はそれほど複雑怪奇であったろうか。否、それどころか、ヨーロッパ外交史の論理を知る者にとっては、これほど単純明快なものはなかった。初等的範例そのものなのだ。


そうなんですね。


当時のドイツは、ボーランド回廊を要求して英仏と外交戦の最中。戦争の危険は十分にあっ た。もしソ連が英仏に加担すれば、ドイツは腹背に敵をもつことになるから、術策の限りを尽くして、ソ英仏の接近を 防がねばならない。


ほー。


ヒトラーは、『わが闘争』の中において、二正面作戦はどんなことがあっても避けるべきであるとも明記している。


そうなんですね。


あの時のドイツとして、独ソ不可侵条約以外に、いかなる方法があったであろうか。日本人にとってこのことが理解できなかったのは、日独関係は日独関係だけで決まるという一元方程式思考しかなかったからだ。そうではなくて、日独関係は独ソ関係、独仏関係……の連立方程式のシステムによって総合的に決まるという発想ができたとすれば、独ソ不可侵条約締結の理解など、きわめて簡単だ。


ほー。


キッシンジャーの師メッテルニヒは、システム理論家として完全ではなかった。 それは彼の連立方程式の変数としては、列強は入っていても、ナショナリズムや自由化の要求は 入っていなかったからである。だからメッテルニヒは、列強を操ることにかけては天才的力量を持っていたのに、民衆の真の要求、ナショナリズムの動向をよみそこねて失脚するのである。


ほー。


彼の忠実な弟子キッシンジャーの運命もまさにかくのごときものがあった。発展途上国の民衆の要求やナショナリズムの動向を察知する能力に乏しかったのだ。彼の外交がりゅうとうだび(竜頭蛇尾)といわれるゆえんは、ここにある。


なるほど。


外交問題ではシステム的分析が重要であるが、メッテルニヒのそれが、完全なものではないと すれば“外交不在国家"日本は何をモデルとすればいいのか。実は、それこそビスマルク外交であり、とくにその「二重保障機構」なのである。 1862年、プロイセン首相に任じられたビスマルクのテーマは、ブロイセン主導によるドイツ帝国の樹立であった。


そうなんですね。気になりますね。


そのためには、まずオーストリアを、戦争によってドイツ連邦外に追いやらねばならない。 対墺開戦を決意したビスマルクは、 まず対露工作を始める。


対墺開戦なのに、対露工作から始めたのですね。


彼は、対墺政策の要衝は、ウィーンにはなくベテルスブルグにあることを知っていたからだ。 彼はあらゆる手段を用いてロシアの歓心を買い、普墺戦争の際の中立をかちとってしまう。しかし、ビスマルクがさらに重視したのは、ナポレオン三世の意向であった。


ほー。


プロイセン軍が全力をあげてオーストリア軍と決戦をしている時、ナポレオンの大陸軍が大挙 してライン川をおしわたったらどうなる。ドイツ帝国誕生の夢はズタズタにひき裂かれてしまう であろう。彼は、「ドイツ帝国はバリにおいて成立する」といい、ナポレオン3世を籠絡するために秘術をつくす。


ほー。


このような外交努力の後に初めて、デンマークを破り、オーストリアを倒し、フランスをも打ち砕き、あっというまにドイツ帝国をつくりあげた。だからこそビスマルクは戦争外交の権化といわれるのであった。


なるほど。


ビスマルクは「私のめざすものは平和である。生まれたばかりのドイツ帝国にとっては、いまこそ平和が必要である」とうそぶいたので、ヨーロッパ中が驚きあきれたが、実に1871年から罷免される1888年に至るまで、ビスマルクは一度も戦争をしたことはなかった。彼はいった。「私は戦争をする時に大きな決断をしたが、平和を維持するために、もっと大きな決断をした」と。


ほー。そうなんですね!


そして、ビスマルクの平和外交のはくび(白眉)ともいうべきものが、二重保障機構の構築であった。 普仏戦争によって、ヨーロッパ最強の陸軍を誇ってきたフランスは、モルトケの精兵によって、完膚なきまでにたたきのめさられた。


なるほど。


これは軍事的栄光に恋いこがれてきたフランス人にとっては、どうにも我慢のできないことである。ドイツが少しでも隙をみせたら最後、フランスが死力を尽くして襲いかかるであろうことは、誰の目にも明らかである。


ほー。


ビスマルク外交は、もとよりこの公理を前提として展開されなければならない。


ほー。


ビスマルクは、そのための条件は、フランスに同盟国を作らせないことであると考えた。列強のなかで、フランスの同盟国として有意味なのは、ロシアとオーストリアである。


イギリスは?他の国は?


当時、英国がフランスの同盟国となる可能性はなかった。イタリアは弱すぎて無意味。その他の国は問題外。


ほー。


もし、ロ シアとオーストリアとが共にフランスの与国となったら最後、ドイツは一巻の終わりである。これこそビスマルクがカウニッツ連合と呼んで恐れていたものだった。いずれにしろ、ロシアもオーストリアも、フランスの同盟国にさせないことが絶対条件だ。


なるほど。


が、これこそ無理というものだ。ロシアとオーストリアとはバルカンをめぐって激しく争って おり、今日でいえば、中国とソ連といったところだ。


なるほど。


ところが、常人にとっての無理は、天才ビスマルクにとってはかえってチャンスであった。 彼は、バルカンをめぐって争っていればこそ、ドイツという騎手は、バルカンを餌として、口シアとオーストリアという2匹の馬をぎょ(御)しうると読んだ。


ほー。


ピスマルクは、帝国議会において、ドイツはバルカンに何の利害関係もない。巧みにバルカン問題を操ることによって、利害対立するロシア、オーストリアの両国をドイツの同盟国にしてしまったこれが、世界外交史上の傑作といわれる二重保障機構である。


なるほど。


ところが、二重保障機構の見事さはここにとどまらない。ビスマルクは、英国を刺激しないよ うに全力をあげるのだ。これは、当時のヨーロッパ外交の常識からすれば必要のない配慮と思わ れた。歴史的にいって、血縁的にいって、英普両国は親善関係にあり、両国の抗争を予見した者など誰もいなかった。


ほー。


しかし、こんな家庭の事情など、外交の論理の前にはまったく無力であることを熟知していた のがビスマルクだ。後に彼の洞察力は、歴史によって残酷なほど正確に証明されるのである。


ほー。


つまりウィルヘルム二世のドイツ帝国を孤立させ、その包囲網を完成させて滅亡に導いた者こそ、彼の伯父の英国国王エドワード七世であったのだ。


第一次世界大戦ですね。


また、ビスマルクは、ドイツ帝国の成立によって、とくに、ドイツ、ロシア、オーストリアの三帝協商のごとき強力な同盟関係が中欧に成立することによって、ヨーロッパ大陸におけるバランス・オヴ・パワーの維持に、もっとも神経質な英国を刺激することになりかねないと考えた。


ほー。


そこでビスマルクは、これ以上英国を刺激しないように全力をあげた。抜本的な政策は、世界の「波の支配者」


波の支配者


ルーラー・オヴ・ザ・ウェイヴズたる英国の地位を承認し、これに一指も触れないことである。彼の政策は、終始ドイツが大陸国家であることで満足し、世界帝国をめざして植民地の獲得にきょうほん(狂奔)することをしなかった。これでは、英国との衝突は起こりようがない。


ほー。


ビスマルクの二重保障機構は、実は英国まで含めた三重保障機構だったのだ。


なるほど、なるほど〜。


まだある。


ほー。


ビスマルクは、 当のフランスすら、なるべく挑発しないようにした。フランスの目を海外に向けさせることである。ビスマルクの政策は、実は四重保障機構であり、互いにまったく矛盾する各国の要因を巧みに調和させ、利害さくそう(錯綜)するヨーロッパに、20年に渡って平和をもたらしたのだった。


なるほど、なるほど、なるほど。すごいですね〜。


このように外交の論理を考察してくると、現在日本がおかれている国際環境は、せんりつ(戦慄)なくしては考えることができない。つまり、すべてがすべてに依存しあっている外交の初等的論理が、まったくわが国の指導者や国民に理解されていないままだ。


はー。


誰が見ても明らかなことだが、日本外交は現在、日米、日中、日ソというまったく構造的に相矛盾する方程式の上に立てられている。それはまた、恐ろしく流動的でダイナミックな方程式でもある。だからこそ、憂うべきなのだ。本来、日本人は静的な外交は得意でも、ダイナミックな外交は著しく苦手とする。そのことについては、平沼内閣からニクソン・ショック、米中頭越し外交に至るまで、あわてふためき、策のほどこしようもないさまを、我々はいやというほど見せつけられているのだ。


そうですね。


しかし、将来における日本外交の困難さは、とてもこんなものではない。だからこそ、ダイナ ミック外交の典型的な範例として、ビスマルクに学ぶべき時は、今をおいてはないのだ。


なるほど、勉強になります。


悪しき命令は命令なきに勝る。


ほー。


そんな決断不能症が政治家にはワンサといる。そのあげく、国家を破局に追い込んでしまうのだ。


なるほど。


例えばナポレオン三世は、ブロイセンがケーニヒグレーツでオーストリアに大勝し、ドイツ帝 国統一が目前に迫った時でも、一気にベルリンをつく決断が下せなかった。


そうなんですね。


当時のフランスにとって、ヨーロッパに覇をとなえる前提として、中欧の無力化が必須であ り、南独諸国をフランスの影響下に置くことこそ不可決であった。 そのために、フランス軍がライン川を渡るとすれば、この時をおいてはなかったのだ。


ほー。


しかし、マクマホン元帥などの進言にもかかわらず、ナポレオン三世には、その決断ができなかった。この優柔不断は、きわめて高価についた。彼が帝位を失い、無残にもセダン城においてプロイセン軍に降伏しなければならなかったのも、この不決断の報いである。


なるほど。


このような例は、史上枚挙にいとまがない。独裁者スターリンすら、例外ではないのだ。


そうなんですか。


スターリンは、独ソ戦がいずれ不可避だとは覚悟していた。にもかかわらず、千載一遇の1940年のチャンスにこの決断が、どうしてもできなかった。


ほー。


この春、ドイツ軍は全力で西部戦線に大攻勢を展開していた。ヒットラーは、シュリーフェン・ブラン以上の規模で、ペネルクス三国を鎧袖一触し、ダンケルクに英軍を全滅させ、フランスを降伏させたが、この頃、東部戦線はがらあきだったのだ。


ほー。


要するに、ヒットラー一流の大バクチだ。ヒットラーは、スターリンが臆病で動くまいと読んでいたのだが、この読みは見事に当たった。


すごいですね。


ところがもし、スターリンが一大決断をして、背後からドイツを襲っていたら、ドイツはひとたまりもなかっただったろう。もしそうなら大戦はここで終息し、二千万人のロシア人は死なずにすんだのだ。スターリンの不決断もまた、きわめて高いものについた。


なるほど。


もともと日本には「指導者の任務は決断だ」という考え方すらなく、それが、わが国をしばしば破滅に導いてきた。


そうなんですね。


暗殺劇はチャンスである。アメリカの大統領をして、決断を要するものとは何か。レーガンは当面するアメリカの危機をすさまじい災難と表現した。全国民向けのテレビ放送で、大統領の口から直接飛び出したのだ。


ほー。


大軍拡を行う一方、連邦予算の削減、とりわけ行政改革と福祉予算の大削減をもりこんだ内容だった。しかし、若干コメントすれば、これほど困難で不人気につながる代物はない。いくらレーガンの支持者でも、すんなりとは受け入れられない予算案だ。


ほー。


つまり、血のにじむような救国予算を、世論の反対を押し切って通すというのは、それだけで至難の業ということである。そこへ降ってわいたような、今回の暗殺劇だ。


ほー。


例えば、1866年、普奥開戦の際、プロイセン国民は戦争の意味を少しも理解せず、時の宰相ビスマルクへの国民の憎しみは、頂点に達した。ところが、ある日、一刺客が彼を襲った。弾丸は、すんでのところで彼の身体をかすめた。


ほー。


この時、ビスマルクは少しも騒がず、自らこの刺客をとらえて、駆けつけた警官に引き渡した。民衆がこのことを聞きつけた後には、昨日までの不人気政治家が嘘みたいに、大衆の同情を一身に集める英雄となってしまっていたのである。


なるほど。


レーガンの場合強そうな男。であるだけでなく、本当に強い男。であることを証明してしまったのだ。政治的効果として、この意味も大きい。


なるほど。


アメリカ人は何よりも卑怯者を嫌い、勇者を熱狂的に識美する。とくに、どんな危急の場合で もジョークを飛ばす人間を尊敬する。


たしかに。


大統領にあっては、とりわけ、この余裕こそ重視される。水爆やミサイルの引き金を握っている大統領がすぐカッとなるようでは、国民はたまったものではないからだ。


そうですね。


それどころではない。やたらに涙を流すような男も、大統領として失格なのだ。かつてマスキ ー上院議員は、最有力の大統領候補者であった。しかし、自分の妻がある新聞に侮隊されたとい って、その新聞社に涙を流して抗議したとの報が伝わるや、大統領候補としての人気はいっぺんで消し飛んでしまったくらいだ。


そうだったんですね。


ところが、レーガンは今回のこの事件を通じて、こうしたアメリカにおける黄金律をことごとく証明した政治家になったのである。勇気と徹底した冷静さを実証したことで、政治家レーガンの勘定には、計り知れない政治的資産。が振り込まれたことになるのだ。


ほー。


思うに、戦後日本の特徴の一つは、政治家の暗殺がほとんどなくなってしまったことだが、これをただ喜ばしいなどということは、何がなんでもお目出たすぎる 物騒な表現かも知れないが、今回のレーガン事件の銀みに倣っていえば、殺すに値する政治家が、いま日本にいるかどうかが、わが国の運命を占う鍵である――。


なるほど。


1981年3月9日朝日新聞の記事、リチャード・単独会見について、記者とアレン役を八っつぁんににお願いできるかな?


隠居さんは?


解説をする。レッツゴー!


日本の現在の防衛政策についてどう考えていますか?


こんなことを他国の政治家に質問する特派員がどこの世界にいてよいものか!これにアレンはどう返事したか。


日本の防衛政策は日本政府が決定することであり、コメントすることはできないよ。


当たり前だ。アレンに頼んで、日本に内政干渉させようとでもいうのか。こんな特派員を糾弾しなかったら、日本の右翼も左賀も存在理由はない!


ご存じのとおり、日本の政策は憲法上制約されて います。


またか!日本の憲法はアメリカに押しつけられたといいたいのだろうが、改正しないで放置しておく以上、それは"日本の問題であってアメリカの知ったことか"アレンだって誰だって腹の中では、こういっているに違いないのだ!


それは完全に国内問題だよ。


これ以上の答えがありうるか。こんなことを聞くだけ野暮だとも思わない男が、特派員を務めるところに、日本人の救いがたい国際政治音痴がある!


日本は現在の政策を変える必要があるとお考えですか?


これは属国が宗主国に対してなす質問だ。いまだに日本はアメリカの占領下にあると信じ切っているような記者を、飼っておいていいものだろうか!


われわれは日本が"80年代の挑戦"をどのように見ているかに関心を持っているよ。


アレン、腹の中で曰くそれはこっちが日本人に聞きたいことだ。この男は自分自身をニューヨーク・タイムズ東京特派員だとかん違いし、俺を日本の総理大臣補佐官とでも思っているのではなかろうか!


日本では日本の防衛政策が米国との経済関係に影響することを懸念しています。


これにアレンはどう返事したか。


そうした懸念について私が読んだのは日本の新聞だけである。(中略)今もいったように、こうしたコメントを見たり聞いたりしたのは、日本の新聞と、過去3、4ヶ月私を訪ねてきた日本人からだ。彼らは、みんな同じ質問をした。しかし、われわれの側がそういう質問をしたことはないよ。


頼まれもしないのに、アメリカのおさきぼう(先棒)をかっいで、性こりもなく、飼い犬の尻尾振り外交を展開するのは、政府当局者に限らず、ジャーナリズムもその一味徒党であることを証明する貴重なサンプルである!


アジア政策について聞きたい。米国は将来もアジアに対する防衛約束を守りますか?


ナンセンスな質問も1回だけなら愛嬌ですまされるが、こう執拗に繰り返されると一種の犯罪だ。日本人は外交音痴だということを、これでもかこれでもかと、大統領補佐官に見せつけなくてもいいだろう!


米国は約束を守る。韓国とのパートナーシップも再確認したし、日本とのパートナー シップも確実に再確認されるだろうね。


会見後、アレン思って日く"アーア、あの男、よっぽど暇なんだナア。お前は約束を守るか、なんていう質問に答えさせるために、 忙しい俺の時間をさかせるとは、ヤレヤレ"


なるほど。なるほど。


伊東外相はレーガン会談において、日本側が一方的に対米輸出の自主規制をすると、暗黙のうちに了解した。とんでもないことだ。外交的低能としての評価が確定したカーター外交、シュミット西独首相、ジスカールデスタン仏大統領ら西側首脳からまともに相手にされなくなったその外交と比べですら、比較にならない論外なものだ。


ほー。


日本経済、いや現在の日本そのものが拠って立つ基盤は、自由貿易である。石油、食糧はいうに及ばず、資源といったら何一つないわが国は、世界の基調が自由貿易体制であればこそ、帝国生命線(エムパイア・ルート)を全世界にさらしていられるのである。


そうですよね。


19世紀においてイギリスが自由貿易のチャンピオンだったように、現在ではアメリカが自由 貿易のチャンピオンである。それはアメリカが自由貿易体制が自国のためにも、世界のためにも 一番よいと信じているからこそ、その決意によって維持されているのだ。


ほー。


だから、アメリカが決意を変更すれば、日本の拠って立つこの体制は、一朝にして廃止されうるのである。ぞうじてんぱい(造次顛沛 )(わずかの間でも)、絶対に忘れてならないことは、いまや日本がその自由貿易によって最大の利益をうる国になってしまった、ということである。


なるほど。


したがって、こうした情況下の日本にとって一番の得策は、こうあらねばならない。自由貿易で有り余る利益を受けつつも外交戦ではこの事実を決して認めず、終始、自由貿易の 原則を主張し抜くこと。


なるほど、なるほど。


フクライスラーがつぶれそうだとか、フォードが危ないなどというのは、あくまでもアメリカの 家庭の事情であって、日本の知ったことではない。それを日本の助力を求めるなんて、内政干渉を誘致しているみたいなもので、それでも独立国とは片腹痛い、といってやればいい。


ほー。


あれやこれやとない知恵を絞った末、自主規制が一番いい、と考えたのだろうか。


はい、はい。


冗談も休み休みにして貰いたい! 第一、資本主義のチャンピオンをもって自ら任ずるアメリカで、「対日輸入割当法案」などに賛成する人々は、ごく一部にすぎず、大多数は自由経済の信奉者で、自由貿易規制に反対する勢 力は根強いことくらい、論理的に考えれば、分かりそうなものである。


なるほど。


日本政府もいまだ被占領下に あるような感覚なのだ。


なるほど、なるほど。


日本人は、アメリカが戦った相手のうちで、イン ディアンを含めて、もっとも気心の知れない相手だ。


ほー。


福田元首相、彼は、レーガンと会見した際、「困ったときの友は真の友」、貸しがものをいう、これは着想としては悪くないのだが、そこでなぜ担保をとっておく必要があることに思い及ばなかったのか。 そうでないと、イザという時に、威力を発揮するかどうか分からないではないか。その担保としては条約という形式をとるのが一番いいが、協定でも覚書でも共同声明でも、は っきりした形で約束を結んでおくことが、肝要なのである。


なるほど。


アメリカは、この種の約束には、まことに忠実な国ではあるが、約束が存在しない場合には勝に手きままな振る舞いをする。


ほー。


田中角栄、彼こそが、いや彼だけがこの未曾有の国難を真に理解し、彼は現在日本の政治家のなかでただ一人、組織人 でない自由人だ。自由人であればこそ、外交は自由な討論――自分の原則と利害とを率直に述べ あい、激しく議論することからスタートするものであることをよく心得ている。そして、このような態度をとることが、結局は日本のためにもなるということを理解しているのだ。


ほー。


佐藤首相の外交音痴によって日米繊維交渉は日米間の信頼関係を根底か ら興れA、ニクソン·ショックとなって日本を打ちすえたのであったが、 このもつれにもつ れた日米関係を回復せしめた者こそ、時の通産大臣田中角栄であったのだ。まさに、専門の外交官と特派員とが束になっても敵わない識見と外交力の持ち主である。この功績だけで彼に千億円くらいくれてやっても十分にひきあう。


なるほど。


田中内閣の功績といえば、誰しも日中国交回復を思い浮かべるが、これが実に、一般の人が考 えるほど楽なことではなかった。キッシンジャーの米中国交回復以来、日中国交回復は両国民の願いであり、双方を益すること多大であることは明らかなのだが、なかなか実現しない。


はい、はい。


国交を回復する前に解決されるべき懸案があまりにも多すぎたからだ。だから、日本の政治家はそのための決断をためらって、日中国交回復が焦眉の急であることは誰しも認めながら、どうしても踏みきれなかった。


はい、はい。


この難問に正面から立ち向かったのも田中角栄であった。彼は、周恩来はじめ中国の指導者に 会っていった。「日中間に横たわる難問を解決できるのは田中内閣だけです。田中内閣の時代に日中復交ができなかったら永遠にできないでしょう」と さすがは20世紀中国最賢の政治家といわれる周恩来、意味は一瞬にして通じた。中国の近代化にはどうしても日本の協力が必要なのだ。小異をおいて大同をとるとばかり、懸案事項のほとんどは日本に有利に解決して日中復交の運びとなった。 「次は、北方領土問題である。


なるほど。


いまでこそ日本人は北方領土を返せといって、子供をサハリーバークに置き忘れた母親のように金切り声をあげるが、田中内閣まで、これを本気になって問題にした者はいなかった。


ほー。


自民党から共産党に至るまでこれを選挙の際に問題にした政党はなかったし、政府も外務省も 涼しい顔をしていた。「領土問題は解決ずみ」とは、現在のソ連の紋切り型のせりふだが、当時の日本政府はながい間、そんな態度をとり続けてきたのだ。


ほー。


この問題をひっさげて、ブレジネフ、コスイギンらソ連首脳と大論戦を展開したのが田中首相だ。その結果、田中は、彼らの感情を害するどころか、大変な尊敬をかちとってしまった。


そうなんですね。


偉大なる外交官として必須の資質の一つは先見の明だ。この点についても、田中角栄はずばぬけたものを持っていた。


ほー、


彼は、いまから十数年前、石油危機も起こらず、誰もかも石油と食糧はいつでも入ってくると信じ切っていた頃、早くも資源外交の必要性を力説していた。


ほー。


一連の例からも明らかなように、現在の日本に真の外交官がいるとすれば、それは田中角栄しかありえない。だから、私が日本の護民官なら、日本人民の名において田中角栄を指導者に指名して、来たるべき破局を回避してもらいたいと思うのだ。 逆にいえば、それだけ日本の当面する国難が未曾有のものであり、計り知れないものであるということでもあるー。


なるほど。


レーガンの登場によって、アメリカの軍事政策は一変した。エスカレートする一方の対日防衛力要請で、日本政 府当局者はそれをいやというほど思い知らされているはずだ。戦争こそ国家最大の仕事」とする"兵営国家"。アメリカのめんもくやくじょ(面目躍如)。国民の大多数が大佐と呼ばれて喜ぶ“軍事国家"。アメリカへの先祖返り現象といえよう。


ほー。


レーガンの軍事政策の最大の問題点は、現代戦に対する認識が不十分だ。


ほー。


ナポレオン戦争から第二次世界大戦に至るまで、国際紛争において戦争は、すべてとまではい わなくても、決定的な decisive意味を持っていた。ところが、第二次大戦を転機として、戦争の意味は大きく変わったのだ。


そうなんですね。


一例をあげよう。ナボレオン帝国は五つの戦勝(アルコーレ、リヴォリ、アウステルリッツ、イェ ナ、ワクラム)の柱に支えられていた、といわれるが、そのナポレオン帝国も、ついにウォーターローにおける敗戦で滅びた。その時、イギリスが生き延びえたのも、ひとえにトラファルガーの一勝による。つまり、大帝国の興亡は一回の大会戦によって決せられたのだ。


なるほど。


今日といえども、ミッドウェー海戦やスターリングラードの決戦に、多くの人々の興味が引き つけられるのも、もしこれらの戦闘において勝敗ところをかえていたならば、世界史の運命は大きく異なったものとなっていたからである。


なるほど、なるほど。


ところが、第二次大戦の終結とともに、状況は根本的に変わった。戦争が決定的な意味を持たなくなってしまったのだ。


ほー。


そのいい例が、1956年のスエズ紛争だ。エジプトによるスエズ運河の国有化に反対して英仏は軍事行動にでて、エジプト軍はあっというまに蹴散らされ、軍事的抵抗は不可能だということを思い知らされた。


そうですか。


にもかかわらず、この紛争における勝利者はエジプトのナセル大統領であり、エジプトはその要求のほとんどを貫徹したのに対し、英仏の要求はほとんど通らなかった。その責任を負って、 英国のイーデン首相は辞職する破目になるのだ。


ほー。


例えば朝鮮戦争当時において、米ソの軍事的懸隔は歴然たるものがあった。中共軍の人海戦術を阻止するために米軍が満州の基地を爆撃し、もしその時にソ連軍が出てきて米ソ全面戦争に発展すれば、ソ連が敗れることは誰の目にも明らかであった。しかし、この満州爆撃を主張したマッカーサーは、トルーマン大統領によって罷免されてしま う。そして、朝鮮戦争は、米中引き分けのかたちで終結することになる。


ほー。


何故アメリカは最終的決断をためらったか。その最大の理由は、戦争によってソ連を決定的に一叩きのめしてしまうことが、なんら問題の最終的解決にならなかったからである。


なるほど。


中ソ紛争もまた同様であって、軍事的にソ連が圧倒的優位にあるにもかかわらず、ソ連は動こうとはしない。いくたびか国境紛争があって、これを拡大してゆけば勝ち戦になることが明白で あるにもかかわらず、ソ連はそれをしない。戦争が最終的解決策でないことを、これほど明白に示すものはあるまい。


なるほど、なるほど。


兵力を増強すればそれだけでよしとはいえなくなったのだ。いまや一国の運命は経済、イデオロギー、文化……などの総合的実力によって決せられるのである。


なるほど、なるほど、なるほど。


もっとも上策は、対中援助をストップし、また西側と中国との交流も停止させて、中国をソ連側に追いやることである。こうすれば、確実に、中ソ両国とも経済的に破綻する。


ほー。


現在、中国の最大の矛盾は、近代化が至上命令でありながら、それに必要な工業設備投資を急速に行おうとすれば、農業が停滞し、十分な消費財が供給できず、大インフレによって国民が塗炭の苦しみにおちいることである。 だから、何れかのの援助がどうしても必要なのだ。


ほー。


そこで、アメリカが逆に西側を いて対中断交を行えば、中国は好むと好まざるとにかかわら ず、第二文革を断行して、「近代化」路線を一時放棄し、ソ連に頼らざるをえなくなる。 こうなるとソ連は破滅だ。そうでなくてさえソ連経済は火の車。もはや中国を援助してやる余力はどこにもない。かくて、政治的要請と経済的要請の矛盾によって、中ソ両国は共倒れとなろ。アメリカは、黙ってこれを見物していればいい。これが上策だ。


ほー。


中策は、これとはまったく逆に、全力をあげて、また日本なども誘って、重点的に中国を援助するのだ。この方法によって、近代化された中国でソ連を牽制できれば、アメリカの軍事負担はぐっと軽くなる。ところが、このような総合的方策をとらずに、現在のレーガン政権のように兵力を充実させる ことだけによって軍事優位をえようとする方法は、まさに下策といわなければならない。


そうですね。


ところで、ソ連こそ国際法の守護者だ。


ほー。


戦争は政治(外交)の延長である」というクラウゼヴィッツの言葉ほど日本人にとって難解至極なものはあるまい。


ほー。


そして注意しなければならないことは、未だにソ連の法律雑誌に、1945年のソ連軍満州侵攻は国際法上違法でなかったという論文がのるということだ。ソ連の最高裁長官や判事までこの 種の論文に手を染める。もちろん、これらの人々は、ソ運法学の最高権威にきまっている。これらの人々が、こんな論文をいまごろ執筆するということは、ソ連は未だに、「中立条約の侵犯」を大変気にしているということだ。これは、遵法の精神がなければありえないのだ。


そうなんですね。


ところが、日本人は無法者であり、国際法なんかどうでもいいと思っている。その証拠に、日 本が満州をとり、中国本土に出兵したとき、日本の国際法学者は誰一人として、日本の立場を擁護して、これは9ヵ国条約の違反ではないと主張する者はいなかった。


ほー。


日本は1922年のワシントン条約において、九ヵ国条約に加わって、支那の領土保全を約し た。だから中国を攻めとるということに関しては、なんらかの正当化の理由が見つからなければ、条約違反のぬれぎぬを着せられかねない。が、日本国民はいっこうに平気であった。要する に、国際条約なんかどうでもいいという感覚なのである。


ほー。


ところで、英米となるとアメリカこそ国際法の最終解釈権の保持者だ と固く信じて少しも疑わないことである。昔、英国がこんな具合であったが、アメリカがそれを引き継いだのだ。


ほー。


すなわち、ナポレオン戦争当時、デンマーク艦隊がフランス艦隊に合流する恐れがあるとして 英国はだしぬけに中立国デンマークの都コペンハーゲンを奇襲してデンマーク艦隊を全滅させた。


ほー。


あまりにもひどすぎる措置だが、英国の国際法学者は、なんだかんだと理屈をつけてこれを合法だということにしてしまった。英国は「世界の波の支配者(ルーラー・オヴ・ザ・ウェイヴズ )」だと信じ切っているからこんなことができるのだ。その後英国は、中近東においてもアジアにおいても、海賊・馬賊さながらのふるまいを繰り返すが、みんな合法だということにしてしまう。


そうなんですね。


この英国を引き継いだのがアメリカだ。アメリカはソ連と違って、国際法を守るために汲々とはしない。


ほー。


第一次大戦においてアメリカはドイツ潜水艦に よる連合国船舶の無警告撃沈を批難してきていたが、第二次大戦において、日本の海上通路は、アメリカ潜水艦の攻撃をうけて、ズタズタに切りきかれてしまったが、アメリカ潜水艦の攻撃は、一回の例外もなく、すべて無警告撃沈であった。アメリカという最高裁による解釈が変わったのであるから、国際法そのものが変化したのだ。   


ほー。


まだある。アメリカは、航空機による非戦闘員の無差別爆撃は国際法違反であるとして、激し く批難した。批難されたのは、日本海軍の九六式陸上攻撃機による、南京、漢口、重慶などの爆撃である。


ほー。


ところが、アメリカが爆撃する側にまわると、この解釈は、とたんに変更され、非戦闘員の無差別爆撃も、たちまち合法であるということになってしまう。B24やB17はドイツの都市をじゃうたん(絨毯)爆撃して、けいがい(形骸)もとどめないほどの瓦礫の山にしてしまう。もちろん、このさい戦闘員と非戦闘員との区別などつけられるわけはない。誰が見ても、無差別爆撃そのものなのだ。


そうなんですね。


これが日本空襲ともなるともっとひどい。高空からする軍事施設攻撃があまり効果がないと知るや、アメリカ軍当局は、「殺し屋」ルメー少将を起用して、東京、大阪をはじめとする日本の大都市に、焼夷弾攻撃を加えてきた。これは、絨毯爆撃よりも、もっとひどい。絨毯爆撃の場合には、戦闘員と非戦闘員の区別なしに攻撃を加えるという理由によって批難されるのであるが、 焼夷弾攻撃は、明白に、非戦闘員たる一般住民に攻撃の的をしぼったものである。


ひどいですね。


B29のやり方といえば、まさに殺人鬼そのものであった。ま ず、ぐるりと周辺に焼夷弾を落として住民が逃げられないようにしておいて、ゆっくりと楽しみながらなぶり殺しにするのだ。


悲惨ですね。


こんなことでも、アメリカがやれば、みんな合法だということになってしまう。わが国は、原爆攻撃をうけた唯一つの国として、反原爆感情が織烈で あり、反原爆運動もまた根づよいものがあるが、原爆の非合法性について論じた者あるを聞かない。1907年のハーグ陸戦規定の条文を素直によむと、あきらかに、原爆は非合法であるとよめてしまう。


なるほど。


日本の産業業種は大量生産をすればするほど、一層有利になる分野が圧倒的だ。企業の部品が画一的であり、規格化されていることが絶対条件である。教育が悪いという以上の、非 個性的教育の要請というものすごい力が社会から働いているということだ。


なるほど。


アメリカの高校では、フットボールの選手といえば英雄で、女の子にもすごくもて、親も大変 に自慢する。これにくらべると、ハーバードに一発で入った生徒など影がうすい。というのも、 フットボールをつうじて、もっともアメリカ的な性格が形成されると考えているからだ。 いざというときに、アメリカのために決断のできる人間、このような人間の育成にこそ、アメリカはもっとも力をそそぐ。


ほー。


大東亜戦争のとき、日本海軍の提督はことごとく、天下の大秀才。アメリカの提督は、金持ちのドラ息子が揃っていた。それがいざ太平洋で決戦してみると日本の 大敗北だ。


ほー。


リーダーの本来の任務が予想しえない事態への対処であり、これが日本的エリートの限界なのだが、アメリカの方では、腕に錨のいれずみをするようなド ラ息子でも、思いきった決断だけはできるように教育されている。考え方もいたって弾力的だ。


なるほど。


安保闘争当時、日本から刻々と伝わるニュースを、アメリカ人は固唾をのんで聞いていた。


ほー。


警官は一度も発砲しない。警察側も革命に加担したと解釈される。軍隊(自衛隊)が出動しないのも、革命側にすでに乗っ取られているからではないか。明日にも正式な反米政権が誕生するのではないかと、アメリカ人ならみんなこう考える。


ほー。


アメリカ人的感覚からすれば、議事堂とはまさに聖域だ。この感覚が、戦後の日本人に、どうしても通じなかった。アメリカなら、どの州にも堂々たる州会議事堂がある。それどころかちょっと名のとおった市 の市会議事堂でも、日本の国会議事堂くらい立派で、市役所などとは、まずくらべものにならない。


はい、はい。


日本に国会議事堂が、もし戦前にでき上がっていなかったら果たして現在存在したかどうか、はなはだあやしいものだ。


ほー。


野党の指導者の先導で、暴徒が国会に乱入したというのであれば、アメリカ人はこれこそまさ に革命だと思うのである。


はい、はい。


フランスにおけるナポレオンのクーデターにせよ、ヒットラー政権の全権委任法の成立にせよ、すべて暴力による国 会制圧を前提にして行われた。国会を制圧してしまえば、何でも好きなことができる。これこそ、近代国家におけるクーデターの定石である。


ほー。


国会乱入のニュースを聞いて、アメリカ国民は、日本は反米革命前夜にあると思いこんでしまった。


なるほど。


その安保闘争の一つのきっかけは、アイゼンハワー米大統領の訪日にあったのだが、理屈が何であれ、もし日本人に、アメリカが何かを強制しているんだという印象を与えたが最後、激しいはんぱつ(反撥)を生ずるのである。


ほー。


他方、自民党政権の日本政府は、いつの場合においても、向米一辺倒である。だから、アメリ カにとっての必須の要請は、自民党政権を維持せしめることにある。アメリカの意志を日本に押 しつけたなどという印象を与えず、革命勢力のエネルギーを昂揚させないことがなにより大事な のである。もし仔犬のごとく忠実な自民党政権が失脚することにでもなれば、日米関係はもとも子もなくなってしまう。このようにして、その後におけるアメリカの対日基本姿勢が決定されることになった。


なるほどですね。


憲法改正は自民党の名演技だ。


ほー。


実は、このどうしようもないアメリカの弱みを逆手にとって日本最大の資産に転化しているものこそ、自民党と野党の猿芝居なのだ。


どういうことですか。


戦後史を振り返ってみると、アメリカが日本に、応分の防衛努力をしろといってきたのは、何 も昨日、今日のことではない。ところが、アメリカの執拗な要求にもかかわらず、この問題は一向にラチがあかない。


そうねすね。


まことにけしからんことだとアメリカはいきまくが、どうすることもできない。自民党政府は決まって、おっしゃることはもっともながら、憲法上の制約によって、それはできないというの だ。そして、これはメイド・イン・USAの押しつけ憲法だとも開き直るのだ。


そうですね。


その先にちゃんと、もう一つ歯止めがかかっている。国内における再軍備反対論が強すぎてどうにもならない。


ほー。


ましてや、憲法を改正しようといい出すことなど、内閣の存立にもかかわる、とアメリカを脅すのである。


なるほど。


これでアメリカは手も足も出ない。野党は反米主義者で占められている。これ以上、再軍備要求を迫ると、自民党政権が倒れてしまう。その結果、万一、野党が天下を取ったらどうなる。安保革命の悪夢もよみがえってくる。


ほー。


それにくらべれば、自民党政権の再軍備政策は、アメリカにとっては不十分とはいうものの、 まだましだと考えざるをえない。なんとも図々しい国だと地団駄を踏んでも、ここで引き下がらざるをえないことになる。これがいつも自民党政権が、アメリカの軍事要求を撃退する定石だ。


なるほど。


日本人の大多数は、自民党の指導者は再軍備したがっているのだと思っているかもしれない が、彼らの本心はそうではないだろう。日本が今、再軍備したところで、うるところは何もないのだ。少しぐらい軍備を増やしたところで、日本がこれ以上安泰になるわけではなし、軍備を増やせば増やしたでアメリカの脅威になる。


そうですよね。


だが、この腹の中をアメリカに見せるわけにはゆかない。アメリカは、国内の反対を押しきり福祉予算まで大削減して、自由世界における責任を果たすために大軍拡をやろうというのだ。最大の同盟国たる日本が、おつきあいは嫌です、とは口が裂けてもいえない。だから、自民党の指導者はみんな、憲法を改正して再軍備をしたがっているフリをしないわけにはゆかなくなるのだ。


なるほど。


だがこの対米猿芝居、自民党だけでは演じられない。ほかに野党と空想的平和論者という相手役が必要になってくる。平和憲法を盾にとり、再軍備絶対反対と騒ぎまくるのが彼らの役割だ。


そうですよね。なるほど。


これがないと、自民党政府の主張がどうしても生きてこない。この再軍備反対の大合唱があれば こそ、自民党はアメリカに向かって、全力をあげて貴国に協力したいのはヤマヤマながら、それは不可能であるといいわけがたつのだ。


なるほど、なるほど。


現在、日本では野党や進歩的文化人の主張は「非現実的」であるといって批判されることが多い。しかし、こう考えてくると、それは、非現実的であるどころか、すぐれて現実的であり、彼らの存在なしには、自民党の政策は現実性をもちえないのだ。より正確に表現すると、野党や進歩的文化人の主張は、その内容においては非現実的でありながら、いやそれであればこそかえって、その機能においては、きわめて現実的であるのだ。


なるほど、面白い、でも、そうですよね。


韓国イスラエルも 経済発展に向けての大きな可能 性を秘めつつも、現状はなかなかう くゆかない。とくに、恒常的な財政赤字とインフレによって経済破綻寸前といったありさまなのであるが、その最大の原因が膨大な軍事費負担なのである。


なるほど。


なんとイスラエルは政府支出中の32パーセント、韓国は36パーセントもの軍事費を投入しているのだ。それにまた、これらの国は、徴兵制をとっているため、毎年、多数の若者が労働を離れて兵役に従事する。このことによって生ずるロスも無視できない。


なるほど。


ところが日本は、猿芝居のおかげで軍備にさほど力をさくことなく、全力を経済発展に投入することができた。


なるほど、なるほど、面白いですね。


自民党と野党の猿芝居の効能は、これだけに止まらない。国内的にもまた、重要な機能を果たしてきたのだ。それは、日本社会における緊張緩和という機能である。


ほー。


戦後日本の社会は、激変した。国民のなかに先鋭的な単純アノミー(無規範)が発生した。


そうなんですね。


繁栄や景気の急上昇の時期にも自殺者は多いのだ。生活環境の激変は、たとえそれが上昇の場合であっても、当人に大変な負担を課する。


そうなんですね。


このアノミーによって生ずる恐ろしい緊張は、なんらかの形で緩和されなければな らない、発散させられなければならないのだが、ここで自民党と野党の例のメカニズムが生きてくるのだ。


ほー。


野党は決して、高度成長を政府自民党の功績としては、認めようとはしない。これによって高度成長によってもたらされた社会の緊張がときほぐされるというわけである。


なるほど。


吉田内閣時代と本質的には変わっていない。何があっても吉田のせいにされた。台風が来るのも吉田が悪いといったあんばいだ。


ほー。


明治、大正の時代にあっては、政府を攻撃しないと新聞はあがったりになってしまう。桂内閣を支持した国民新聞は焼き打ちにあい、大隈内閣を支持したよろず(万朝)報の読者は激減したという事実がある。


ほー。


しかし、それも槿花一朝の夢だった。ここにきて、36年間のロングランを続けてきた戦後猿芝居の興行も、幕を降ろさねばならない破目になったのである。


どうしてですか?


一方の立て役者、空想的平和屋が、ソ連のアフガン侵攻以来、一切沈黙してしまい、迫りくる軍備の足音に怯え切って、舞台から逃げ支度を始めているからだ。


ほー。


なにしろ反安保の大御所が変じて核武装論者となり、全学連闘士変じて自民党のそうく(走狗)となる世の中だ。


なるほど。


しかし、自民党政府にとっては、それでは困るのだ。


そうですよね。


野党の側も、このところ急速に現実的になり、体を張ってまで再軍備を阻止するのだという気構えは見られなくなって、適当なところで自民党と妥協してしまう。そして、自民党の力の前に押しきられてしまったのだといい逃れる。


ほー。


その結果、戦後日本を支えてきた体制は地ひびきを立てて倒れることになるからだ すでに論じたように、政府自民党の現実主義と、非現実的なるが故にその機能においてはすぐれて現実的であった野党・進歩的文化人の非現実主義とが、うまくタイ・マッチすることによっ て、戦後日本の体制はっっがなく作動してきたのだが、野党・進歩的文化人が非現実主義を捨てさり現実に目覚めるならば、その瞬間において戦後の体制は作動を停止するのである。


なるほど。


社会党の協会派など、その主張が現実離れしていることで有名だが、それであるからこそ、存在意義は大きい。


なるほど。


もはや日本は丸裸でアメリカの前に立たされているのである。


ほー。


つまり、政治的には安保の銃口は、ぐるり一回転して、日本につきつけられているのだ。


おー。


しかも、いうまでもないことだが、経済的にも、アメリカ最大の敵国は日本である。この瞬間においてすら、アメリカの基幹産業は、あした(朝)に一つ、ゆうべ(夕)にもう一つ、日本に攻めとられ ているのだ。


ほー。


鈴木首相は、記者団に対して、日米共同声明の内容については、外相と私が十分にチェックし承認、決裁して決めたことだ。日米両政府間対立も、意見の食い違いも、内容にも異存はない。といっていたが、それならなぜあんな大騒ぎをしたのだ。


はい、はい。


日米両国が合意した共同声明を日本の首相が批判するなどということは、とても「外交慣例の逸脱」などという生易しいものではない。もし棋士が王将に桂馬とびをさせたらどうなるか。その「将棋」は、たちまも将棋であることを止めるであろう。自分で作った共同声明にあとから文句をいうなどということは、こんなものだと思えばよい。


なるほど。


日本人に「契約」という考え方はない。そのかわりにある の が「話合い」だ。比較社会学的に分析してみるとこれほど違うものはない。契約とは、できあがった文面(テクスト)のことをいう。


ほー。


ひとたび神との契約が結ばれてしまえば、それは絶対である。ひとたび人間が神との契約を破ったら最後、神はたちまち人間をうち滅ぼしてしまうのだ。西欧社会における契約概念の原型は、タテの契約つまり神と人とのあいだの契約であり、人と人とのあいだの契約は、いわば、そこから導出されるものであった。


ほー。


これこそ、西欧社会における規範の特性であって、契約という考え方のまったくない日本はいうまでもなく、契約概念はあっても、絶対者(神、仏)などとの契約という考え方のない、インドや中国とも異なる。


そうなんですね。


この神との契約、タテの契約は、近代社会の成立とともに、人間のあいだのヨコの契約に、180度の転換をする。ただし、中国やインドのように、契約がはじめから人間のあいだのの契約であった社会とは根本的にちがう。タテの契約がヨコの契約に転換したからといって、契約の絶対性は依然として保持され、契約が秩序形成の根本になることに変わりはない。


なるほど。


社会契約説は歴史的にはフィクションにすぎないとする説が有力であるが、事実であろうがなかろうが、それが近代市民社会形成にさいして演じた役割の重要さは絶大であって、アメリカなどはこの思想によって形成されたといっても過言ではあるまい。


ほー。


近代西欧市民社会の規範的構成は、神とのタテの契約が人間のあいだのヨコの契約になったことにある。


はい。


中国やインドでは、神とのタテの契約という概念がないから、絶対的な契約形成するという契機がでてこない。


はい、はい。


これに対し、中近東では、神とのタテの契約という概念はあっても、それが人間のあいだのヨコの契約に転化し、人間の作為によって秩序を形成するという契機がでてこない。


はい、はい、はい。


ところがどうだろう、日本の場合には、「契約」という考え方がそもそも欠如しているのである。「箸にも棒にもかからない」。日本人が得意とする「話合い」ほど、外交交渉からほど遠いものはない。


ほー。


交渉とは、もっとも有利な契約に到達するための過程なのであるから、この過程においてであれば、どんな術策を用 いてもよい。有利な契約を獲得するための交渉がよい交渉なのである。だから、交渉の中途にお いて、こちらの腹をさらけ出してしまうことはありえないのだ。そんなこ と は、「交渉」に対する概念矛盾以外の何ものでもないのである。


ほー。


これに反し、日本流の「話合い」においては、お互いに腹の中を見せあって、「裸になって」何もかもさらけ出してしまうことをよしとする。そうしないと、水くさい、ということになって、まとまる話も流れてしまう。


ほー。


逆に、もし両当事者が意気投合してしまえば、合意に達した内容など、もうどうでもいいのである。極端な場合には、契約などという形式的なものを取り結ぶ こと自体、野暮なこととして嫌われる。俺の目をみろ何もいうな、とか何とかいって、何もかも相手にまかせてしまうと、相手の方でも、悪いようにはしない、ということ になって、「誠心誠意」つくすことになる。


ほー。


社会学的にいって、これほど契約と異なるものは考えられない。しかも、日本人は、何百年も このような「話合い」こそが至上の人間関係なりと信じつつ生きてきたため、一般法則としていえば、日本の国内政治家として有能な人物であればあるほど、外交官として不向きであるといえるだろう。その理由は、国際政治は契約の論理で動くのに対し、日本の国内政治はすべてフィーリングで動くからである。


ほー。


話合いのフィーリングに首までどっぷりつかりこんだ政治家にとって、国際政治を動かす契約の論理を理解するほど困難なことはない。


そうですね。


このことを、残酷なまでに証明してみせたものこそ、自動車交渉から日米共同声明にいたるま での鈴木外交の大スキャンダルである。


ほー。


「困ったときの友は真の友」(福田元首相)というわけで、頼まれもしないのに助けてやれば、そ れで貸しができる。この貸しが、レーガンから難題をもちかけられたときにものをいうというわ けだ。総理、元総理ともあろう者が、こんな安物の西部劇程度の発想しかできないところも問題 ではあるが、国際政治の初歩すら分かっていないために、せっかくの西部劇も、安物としてすら 機能しえないのだ


ほー。


まず、言語道断ともいうべき発想の甘さを指摘しておくと、アメリカは、日本が自発的に自動車輸出の自主規制をした程度のことで、恩にきて感謝するであろうか。アメリカ人心理の無理解 も、ここまでくると犯罪的といえる。


ほー。


前に述べたように、人類学者ルース・ベネディクトは、「日本人は、アメリカが戦った相手のうちで、インディアンを含めて、最も気心の知れない相手 だ」といったが、もし、日本人がそのようなことを平気で信じているようであるなら、レーガン とそのスタッフは、有能な人類学者を日本に派遣して、徹底的調査をする必要を感ずるに違いない。


ほー。


日本人がどう感ずるかはまったく別にして、アメリカ人はこの36年間に日本にしてやった ことを絶対に忘れてはいない。アメリカ人なら誰しも、日本が碌な防衛努力もせずにGNP世界 第二位で楽々と経済成長をたのしんでいられるのは、一体、誰のおかげだと、思っているにきまっている。そこへ、鈴木首相の一行がやってきた。カモがネギをしょってとびこんできたら同然 である。自動車輸出の自主規制程度で許せるものかと手ぐすねひいていたことだったろう。


ほー。


鈴木首相にしてみれば、頼まれもしないのに、自動車輸出の自主規制をすることによってアメリカの真の友であることを実証するから、自国における立場をも十分に考慮して、防衛力の増強は勘弁してくれ、といいたいところだろうが、こんなことが通ずる相手であるかどうか。


そうですね。


「話合い人間」である日本の外交官が、「契約」ということを全然理解しえなかった好例が、三 クソン=キッシンジャーのコンビによる、米中復交の場合であった。


ほー。


ニクソンにいたるまでの歴代のアメリカ政府は、台湾の蒋介石にのみ肩入れして、中共を完全に敵視しつづけてきた。


ほー。


イギリスやフランスはじめ、このアメリカの政策は、あまりにもがんめいふれい(頑冥不霊)であるとして、しだいに態度をかえる国も続出したのであったが、ひとり日本だけは、飼犬のごとく忠実にアメリカに追従して、どんなことがあっても対中態度をかえなかった。


ほー。


こんな忠実な子分に相談なしには、どんな大親分でも対中政策を変えられまいと日本の外交当局は固く信じきっていたのではあったが、そこが西部劇と国際政治の違うところ、一夜あけたらたちまち米中復交は成り、ひとり日本だけがとり残されていたというわけである。


なるほど。


日本はアメリカに忠実であったが、べつにその代償として何の担保をとっていたわけではない。ただ漠然たる信頼関係の雰囲気があるだけであって、アメリカは日本に、中国と単独講和をしませんという約束を与えていたわけではない。


ほー。


ということは、アメリカが日本の頭越しに勝手に中国と講和を結んでしまっても、なんらの契約違反にはならないのである。


なるほど。


もちろん、これほど徹底した対米隷属路線を打出せば、アメリカは大喜びするにきまっている。鈴木首相一行を大歓迎することはいうまでもない。そして、事前にはアメリカは日本に対して防衛力の増強をもとめ、首相訪米は相当にきびしいものと思われていた。


はい。


ところが、一見、鈴木首相はなかなかがんばり、レーガンとの第二回会談で、防衛問題に関しては日本には憲法上の制約があり、また、財政再建の問題もあって、あまり防衛費をふやすことは困難であることを力説したそうである。そして、持論の総合安全保障をはじめ、日本は軍事ではなく、外交、経済、 技術協力などの面で協力することを主張したとのことである。


はい。


この鈴木首相の議論をレーガンは、会談の予定時間を一時間もオーバーして熱心に傾聴した。かくしてレーガン鈴木両首脳の個人的信頼関係が予想以上に確立されたので、鈴木首相は、この会談は大成功であると妄信して しまった。


はい。


ところが、会談そのものは要するに交渉の経過であって、最終的な契約でも何でもないことに思い至らなかったのであるこの交渉による成果は、共同声明であり、途中の経過が何であれ、結論はすべてここに要約され、将来における日米関係を拘束するものは、ただこの共同声明だけなのである。


はい、はい。


だから、いうまでもなく、首相も外相も共同声明だけを、その後の行動指針にすればよい。ところが、会談の後に出された共同声明をみると、レーガン鈴木会談における、鈴木首相の懸命の発言主旨とは、異質的なものがかなり含まれていた。


はい。


そこで、鈴木首相は、思わずカッと なったらしいのであるが、これについて何人かの記者は「……その気持ちは分かるが……」などといった。が、こんな気持ちなど分かられては、まったくどうしようもないのである。


ほー。


このたびの日米共同声明においては、はじめて公式に「日米同盟関係」という言葉が使用されたため、これが軍事同盟をも意味するかどうかということが問題とされた。 


ほー。


これに対し、鈴木首相は、はじめ日米同盟は軍事同盟を含まないことを強調した。しかし、これなどナンセンスもいいところである。安保条約は、誰がみても、正真正銘の軍事同盟、それ以外ではありようがない。アメリカは日本の領域(領土と領海)の防衛義務を負い、日本はそのために基地を提供する。これが軍事同盟でなくて、どこに軍事同盟などありえよう。


そうですね。


それゆえ、この日米共同声明に対する鈴木首相の否定的発言は、アメリカ側をカンカンにおこらせるに十分であった。問題のエッセンスは、「日米同盟」が軍事同盟を含むかどうか、まったくこれにつきる。すでに論じたように、共同声明の主旨は、あきらかにこれを肯定している。


ほー。


首脳会談を非常に重視して、鈴木首相一行に対する歓迎ぶりが外交的に このうえないものであったアメリカが、カンカンになって怒り、こんな一貫 性のない男はもう信用できないと決意したのも無理はない。


はい。


かぜん(果然)、レーガン・ショックはじんらい(迅雷)のごとく日本政府を襲った。 ライシャワー元駐日大使は、政府が外交・防衛の基本政策としてきた非核三原則を真向から否定する発言をした。


ほー。


すなわち、核積載米艦の日本寄港は、21年まえから日本政府とのあいだで口頭了解ずみであった、というのである。


そうゆうことだったんですね。


「これに対し、宮沢官房長官ら日本政府当局者は、口頭了解そのものを否定したが、ライシャワーは、日本人記者と会見して、これにさらに反論を加える。


ほー。


この時期においてライシャワーが、ことさらに日本政府を窮地におとしいれるような発言をしたことに関してはすでに解説は要しまい。アメリカに見すてられた日本首相。それがどんな運命をたどるか、もはや多言は要しまい。鈴木首相、「汝の日はすでにかぞえられたり」。


なんですか?それ。


旧約・ダニエル書だ。


はー。


国連について、まず第一に、国連はユニヴーサルな機関ではない。その意味では、国際政治で果たす役割は、ウィルソンの国際連盟よりもはるかに後退している。


そうなんですか。


国連の正体は何か。英語で国連はユナイテッド・ネーションズ。それを国際連合などと訳すのがそもそもの誤りなのである。直訳すれば連合国、国連というのは連合国以外の何ものでもない。


えー、そうなんですか。


つまり、国連とは、日本とドイツをやっつける軍事同盟として発足した組織で、終戦後は、日本とドイツが再び暴れださないように監督する機関として残った。


えー、そうだったんですね。


日本の大部分が、国連はウィルソンの国際連盟の発展したものだと考えているが、とんでもない誤りなのである。たしかにウィルソンのリーグ・オヴ・ネーションズというのはユニバーサルな国際機関だが、今の国連は性質がまったく違う。


はい。


では、歴史的にいってこれと似ているのは何かというと、ナポレオン戦争後の(しこくどうめい)四国同盟である。


ほー。


ナポレオンが暴れて暴れてしようがなかった。一国でナポレオンに勝てる国がない。仕方なく英国、ロシア、オーストリア、ブロイセン、そのときのヨーロッパで強い国が四つ合わさって、 寄ってたかってナポレオンを攻撃した。そして、やっとのことで、ナポレオンをエルバ島に流した。


はい、はい。


四国同盟の目的は、ナポレオンが再び暴れださないように監視するための軍事同盟。だから、 ナポレオンがエルバ島から脱出すると、また四国同盟がフル回転して、もう一回ナポレオンをつかまえて今度はセント・ヘレナに流した。


はい、はい。


今でも国連憲章には「敵国条項」というのがあり、日本やドイツが終戦処理に反するような行いをした場合には、連合国は合法的に軍事行動を起こすことができることになっている。


そうなんですね。


国連は平和の団体などというが、合法的に戦争ができる項目がいくつかある。一つは自衛権の発動。もう一つは、集団自衛権の発動。


ほー。


つまり、国際条約などでオブリゲーションがある場合、それから国連の安保理事会が決議した場合には戦争ができるしかけになっている。


ほー。


だから建前からいうと、そもそも日本が国連に加盟--仲間に入れてくれなんて行くのがおかしい。


はい、はい。


エルバ島のナポレオンが、四国同盟に加入を申し込むようなものでは ないか。アメリカは旦那ヅラするな、なんていうけど、初めからアメリカが国連の旦那なんだから且那ヅラするのは当たり前なのである。


ほー。


日本 が国連に加盟したときに、これで日本はやっと一人前になれたといって、みんな喜んだ。日本のある大臣が、「国連っていうのは田舎の信用組合の寄り集まりみたいなもんだ」と本当のことを いったら、たちまちクビになってしまった。


ほー。


信用組合の寄り集まりならまだいい。国連は日本を相手とするところの軍事同盟なのである。さらに悪いことに終戦後、国際機関がなんにもなかった関係で、国連の機能がずーっと変わってきてユニヴーサルな苦情処理機関みたいになってしまった。


ほー。


しかも、後から後から小さな国が入ってくる。国連の構造というのは昔のまま。安保理事会が未だに存在して、これが、絶大な権力をもっている。


ほー。


しかもその常任理事国は変わっていない。そして、米ソ英仏中の五つの常任理事国は、拒否権をもっている。だから、国連が有効に働かないのは当然で、いまやアメリカをはじめとしてどこの国も、国連を中心になんかで外交できるわけがないことを理解している。


ほー。


なにしろ、構造と機能とが矛盾しているのだから。もはや、どうしようもないのだ。


なるほど。


「日米はお互いに最大の敵である」などといっても、現代の日本人にはピンとこない。わるくすると、おまえは一体、いつの時代のことをいっているのか、40年前と勘違いしているのではないか、などととられてしまう。


なるほど、今日の話も40年前ですけどね。80年前と勘違いしてないかとなりますね。


現在では、ルーズベルト大統領は、日本のハワイ奇襲計画を事前に知っており、対日宣戦の口実をえるために、あえてこれを見のがしたのだ、という研究がいくつか出ている。


ほー。


アメリカ人のいい分は、当時の新聞や雑誌に満載されている。日本の「裏切り」である。いや 「反逆」 だ。


そうなんですね。


いかにも不思議な話ではないか。「裏切り」とは、仲間味方に対 す る概念で ある。「敵を裏切る」とは形容矛盾で、では、当時のアメリカ人は、日本の同盟国であったのか、少なくとも、友好国であったとでもいうのか。


はい、はい。


とんでもないことだ。当時のアメリカは、日本の戦争相手たる蒋介石に武器を与え、軍事顧問 まで派遣して援助していた。


そうですよね。


何といっても、もっとも致命的な敵対行為は、石油の禁輸である。石油がなければ戦争はできなくなる。アメリカの石油の禁輸は、日本が戦わずして降伏するか、油があるうちに戦争を始めるか、二つのうちの一つを選択しろ、というにひとしい。歴史的にいっても、石油の禁輸は、立派な戦争事由になりえた。


なるほど。


例えば、1936年、イタリアのエチオビア侵略のさ い、英国は断乎として制裁、を決意して、大艦隊の一大デモンストレーションを含む、本格的な制裁措置をとり始めた。しかし、機敏なムッソリーニは、ただちに、石油の禁輸は戦争を意味すると宣言した。これを聞いた英国は驚いた。当時の英国においては、空想的平和屋がちょうりょうばつこ(跳梁跋扈)して国政を左右し、開戦できるような国情ではなかった。やむなく英国は、石油の禁輸は、対伊制裁措置のなかには含まないことにし た。これでは、対伊制裁は尻ぬけになってしまう。


ほー。


それに本当は、戦争だけはしたくないのだという英国の意志がありありとよみとれてしまう。これでは、マルタ島に大艦隊を集結させても何にもならないのである。伝統的に、イタリア海軍が英国海軍を恐れることは、兎が虎を恐れるようなものであったから、不落のマルタ軍港に集結した英国大艦隊の砲口が、本当にイタリアのほうをむいていると覚ったならば、臆病なイタリア兵はたちまち腰をぬかして、エチオビア向けの船団は、スエズ運河を越すことはできなかったであろう。


なるほど。


この例からも明らかなように、石油の禁輸こそまさに、本当に戦争をするつもりであるかどうかの決定的な意思表示とみなされるのである。 この対日石油輸出禁止をアメリカは、1941年自ら行っただけでなく、イギリスやオランダのようなり国をいざなって同調させた。


ほー。


日本が戦争に勝っていたならば、この政策の責任者は、 まちがいなく、戦争犯罪人として絞首刑になっていたことだろう。


はい、はい。


そして最後にアメリカは、ハワイに大艦隊を集めて、当時ワシントンで進行中であった日米交地に軍事的圧力をかけようとした。これは、石油禁輪という明白な戦争意志を前提とした軍事的デモンストレーションだから、1936年、マルタ軍港に集結した英国艦隊とは、いささか、わりが違うのである。


ほー。


西部劇でいえば、アメリカは、実弾のこもったライフルを日本のはなっ先につきつけてきたのだ。こんな状況下で、日本が先に発砲したからといって、何の裏切りになるのであろう。


そうですよね。


実はここに、アメリカを理解する鍵がひそんでいる。


ほー。


第一のヒントは、いつの時代でもアメリカ人は、日本人を仲間、それも対等の仲間だというのではなしに、いわば家来だと思っているということ。第二のヒントは、日本の成長があまりにも速すぎる、ということだ。


はい、はい。


可愛い仔大だとばかり思っていた相手が、いつのまにか成長してライオンになっていたというのでは誰しも驚くだろう。この意外性が日本への恐怖を生む。


ほー。


日本の成長というと、すぐ戦後における経済の高度成長のことだと思うかもしれないが、戦前 日本の高度成長もまたすさまじいものがあり、それは当時の何人の予想をもすら上まわるものがあった。経済の高度成長もまた含まれる。


ほー。


それにもましてアメリカを恐れさせたこと、それは、日本の軍事的高度成長であった。これは、仔犬がライオンになったなどという比喩ではまだ足りない。ハツカネズミがたちまちマンモスになってしまったとでも表現したら、アメリカ人の驚異感を伝えられるというべきか。これはどまでの驚異の感情は、ただちに恐怖感に転化しうるものであることはいうまでもない。


はい、はい。


日清、日露両戦争における日本の大勝は、ヨーロッパ人にとっても、アメリカ人にとっても、奇蹟のごとく見えた。中国のいっせい(一省)のごとく思念し、かつ感じてきた日本が、中国に連戦連勝して、北京城下の誓いの一歩手前までゆくというのも、彼らのバランス感覚を狂わせるほどの驚き ではあった。


そうですよね。


が、その日本が十年後には、世界最大の陸軍国ロシアに連戦連勝し、海上においても、自軍に二倍するロシア海軍を全滅させ、対馬沖においては、「海上せんめつ(殲滅)戦における教科書的模範」と各国の絶賛をあびる「トラファルガーのネルソン」以上の圧勝をえるのだ。日本海軍は、アメリカ海軍にも範をとり、何人かの提督や士官はアナボリス兵学校出身であったことは確かだが、アメ リカにはまだ、東郷平八郎に匹敵するぶくん(武勲)をたてた者は、建国いらい、誰もいなかった。


なるほど。


アメリカ人が、最初に「日本(ジャパン)」にお目にかかるのは、童話 になったマーコ・ポーロの『東方見聞録』。マーコ・ボーロは日本を実見していなかったから、『東方見聞録』における日本がすでに想像の産物だ。


ほー。


それが童話作家のほんぼう(奔放)な空想力によって脚色されてあらわれてくるのだから、これがアメリカ人の幼児体験として、日本なんぞシャングリアのとなりの国だというような感触が定着したとしても不思議はない。


ほー。


マルクスは資本論の中で、「現存する封建社会としては、日本がある」といっているが、その禁断の帝国の探険にはじめて成功したのがアメリカ人、ペルリとか、ハリスとか、ヒュースケンだとかそういった一般アメリカ人なのだ。アメリカ人の日本観が、彼らの『日本探険記』の印象によってさらに深まり、決定的なものとなった。


そうなんですね。


アメリカ人は、日本という禁断の帝国をはじめて開かせ、これを探険したのは自分たちだと信じきってしまっているから、心理必然的に、この日本を何とかして育ててやるのが自分たちの貴任だと思いこむことになる。このアメリカ人心理と、向米一辺倒の日本人心理とがビタリとマッチした。


ほー。


多くのアメリカ人が、日本政府の招待で、あるいは自発的に、日本にきて日本近代化を指導した。


ほー。


森鴎外 のような軍医中将の文豪ですら、二度とベルリンの地をふめることは一生あるまいという認識で 『舞姫』を執筆した。これに反し、アメリカならば、庶民でも行けた。


そうなんですね。


このような経過をたどれば、アメリカ人はどうしても、日本という国は自分たちがようらん(揺籃)から育ててやった国だと感じてしまう。


はい、はい。


代議士の母親が息子の初登院についてゆき、大臣の母親が息子の認証式についてゆきたがるあの心理と同じだ。


はい、はい(笑)


その日本が、世界が恐れる強国ロシアを敗ったというのだから、アメリカが、わがことのように喜んだのも無理はない。


そうなんですね。


でも、その後がよくなかった。気がついてみると、どうも軍事大国日本というイメージは、アメリカ人にとって不自然きわまりないものであり、どうしてもビッタリとこないのだ。


ほー。


日本が日露戦争に奇蹟の大勝をうると、世界の未来作家は、さあこの次の大戦争は日米戦だといい出した。


そうなんですね。


それに呼応するがごとく、アメリカも太平洋艦隊の充実にのりだし、日本も、明治40年に第一次帝国国防方針をうちだし、ここにおいてはじめて、アメリカが仮想敵国として登場する。


はい、はい。


日本開国の最大の目的は、黒船造りにあった。このことはペルリ来航後、わずか2年で、国産の黒船を造り出した努力のあとだけを見てさえ、明白なことだろう。


なるほど。


しかし、優秀な軍艦を国産するためには、総合的な国力の充実が要求され、どんなに努力をし たからとて、いっちょういっせき(一朝一夕)にできることではない。日本は、日清日露両戦役を外国産の軍艦で闘って大盛した。


はい、はい。


1907年、2万トンの世界最大の戦艦薩摩が竣工した。国産の巨艦である。日本でもこんな大艦が作れるようになったんだと喜んだのはつかのまのこと、日本は、たちまち失望の奈落につきおとされてしまった。


ほー、


同じころ、英国で、新戦艦ドレッドノートが進水した。これこそ、時代を画する名艦であり、大砲巨艦主義の到来を告げるぎょうしょう(暁鐘)であった。その証拠に、今日でも、弩級、超弩級などという言葉が使われているが、「ドレッドノート級」という意味である。


そうなんですね。


対馬沖海戦は日本の未曾有の圧勝であったが、世界の波の支配者ルーラー・オヴ・ザ・ウエイヴズたる英国は、これを徹底的に研究した。そして、海戦の勝敗をわかっ決定的要因は戦艦の主砲であったとの確信をえた。 これは海戦史上、画期的発見である。大砲巨艦主義といえば、当時は、未来を開く新思想であったのだ。


そうなんですね。


対馬沖海戦の結果、一変したのであった。決定的威力を発揮したのは、戦艦の主砲であった。ドレッドノートだ。このふね(艦)は、有力な副砲を全廃して水雷艇を追払えるていどのものにとどめ、そのかわり、12インチの主砲を、従来の四門のかわりに十門もつんだ。


ほー。


これが1907年の話。この年にはまだまだ、日本の軍艦は、技術的にも、戦争思想的にも、先進国たる英米に遠く及ばなかった。


はい、はい。


それからわずか13年後の1920年、戦艦ながと(長門)が進水した。この艦は、世界ではじめて16インチ砲を搭載した最強のもので、速力も26.7ノットと、当時では高速戦艦の部類に入る恐るべきものであった。


ほー。


当時の米戦艦はすべて14インチ以下の砲しか積んでいなかったからアウ ト・レインジされてしまう。英国の戦艦もみんな、ひとまわり実力が低いのである。掛値なしに世界一の戦艦であった。


そうなんですね。


英米がいかに長門とその姉妹艦むつ(陸奥)を恐れたかは、ワシントン軍縮会議において、陸奥の存否 が、一大争点になったことからも明白である。 ついに日本は、造船技術において、世界最先進国に追いつき、トップ・レヴェルにおどり出たのであった。


そうなんですね。


一万トン重巡レース においても、列強腕によりをかけて設計のけん(姸)をきそうなかで、日本だけが一頭地をぬきんでるものがあった。 砲力では世界最強であり、装甲では英米なみ、速力では仏伊なみという、よいことずくあの、信じられないような性能の重巡を日本は造りあげたのである。


ほー。


っまり、英米の重巡は装甲はしっかりしているが低速、仏伊の重巡は、装甲はほとんどないかわりスピードが速い、という造艦思想上の違いがみられた。一長一短だというべきだが、日本の重巡にかぎって両者の長所をとり、高速かつ重装甲だというのだ。うますぎるみたいな話だが、その話は、ここで終わらない。軍艦として一番大事な攻撃力は、日本の重巡がズバぬけていた。同じく8インチ砲を、英仏伊がいずれも8門、アメリカが9門であるのに対し、日本は10門もツイート(載)めたのだ。しかも艦は安定し、りょうはせい(凄波性)抜群であった。


ほー。


あまりにも日本の重巡がすぐれていたので、とうとう英国が、設計図を見せてくれ、といってきた。当時アメリカは仮想敵国であったが、英国とのあいだでは、まだまだ、日英同盟の余韻が残っていたからこんなことをいって来たのだろう。


そうだったんですね。


まるで、現在における製鉄技術の日米逆転みたいではないか。


そうですね。


日本の軍事的高度成長は、飛行機の場合には、比較を絶して早く目がまわるほどのものがあった。


ほー。


日本人がはじめて空中戦なるものを実行したのが1932年、上海事変のとき。すでに第一次大戦においてヨーロッパでは、リヒトホーヘンだとかインメルマンが、ウルトラ・エースの盛名をほしいままにしていたが、当時の大多数の日本人にとってそれは、アナザー・ワールドのできごとのごとく受けとめられていた。日本人に空中戦ができるなどと実感はできなかった。


ほー。


上海上空において、日本機が、アメリカ人口パート・ショートの操縦する中国戦闘機を撃墜した、というニュースが伝えられたのだ。


ほー。


このさい、日本機6機でやっと敵機1機を撃墜し、こちらの指揮官も戦死しているなどということを問題にする者など誰もいなかった。


はい、はい。


1932年の話である。この年における日本の航空技術など、このようなレヴェルであった。飛行士のレヴェルもこの程度なら、飛行機も多くは、外国の模倣か外人技師の設計によるものであった。


はい、はい。


1936年に海軍の96式艦上戦闘機が就役し、1937年には、陸軍の97式戦闘機が就役した。96戦および97戦は、世界最高のレヴェルに達したものであり、支那事変において、欧米一流の機種と闘っても、一歩もひけをとらなかった。とくに、97戦のノモンハンにおける活躍ぶ りは特筆すべきであり、世界の謎といわれたソ連のイー16型戦闘機に圧勝して世界にその名をとどろかせた。


ほー。


これからさらに4、5年たった1941年にはどうか。 海軍の零式艦上戦闘機は、第2位をはるかにひきはなした世界最強の戦闘機であった。このことについては、もはやぜいげん(贅言)を要しまい。


そうなんですね。


このあまりにも速すぎる日本の高度成長には、アメリカはついてゆけなかった。 零戦は、すでに1940年に就役して、重慶攻撃に参加していた。重慶には、アメリカ軍事顧問団長シェーンノート少将がいた。彼は、戦闘機の最高権威である。零戦の世界水準をはるかにぬく性能を見破られないはずはない。


ほー。


シェーンノートは全力を挙げて零戦に関するデータをあつ めてアメリカ情報部に送った。零戦は大和とはちがって、毎日、戦闘に参加しているのである。


はい、はい。


その要目をかくしおおせるわけはない。まして相手は戦闘機の最高権威。その彼が専門家としての立場から集めたデータである。ここに零戦はアメリカ情報部の前にぜんぼう(全貌)を露呈し、アメリカは 即座に対策をねりはじめたかと思うが、実はそうではなかった。


ほー。


情報部長が発言した。「諸君。私は、シェーンノートのような信頼すべき専門家が送ってきたデータにケチをつける意図を少しももたない者であることを断わっておく。しかし、諸君の分析結果が正しいとすると、 このゼロとかいう日本の戦闘機は、アメリカの現存するいかなる戦闘機よりも、また近い将来に就役するいかなる戦闘機よりも優秀だということになってしまうではないか」 ここで全員爆笑。ゼロ戦研究会はお開きとなって、この話題が再び取上げられることはなかった。


ほー。


「日本がアメリカよりすぐれた戦闘機を作るなどということは考えられない」という固定観念は、アメリカ人にとってかくまでもろうへいふばつ(牢平不抜)であったため、専門家から送付されてきた正確無比なデータを目の前にしながら、アメリカは開戦まで、零戦について知ることがなかった。


そうなんですね。


日本の軍事的高度成長のたくましさにっいて、アメリカは第二次大戦における苦い体験から、 決してこれを忘れることはないだろう。


なるほど。


現在でこそ、仔犬のような自衛隊が、数年にして虎変じて猛虎にならない保証がどこにあろう。今や、日本経済は巨人となり技術力もまた世界に冠たるものがある。その日本が挙国して大軍備を作りあげたとすれば、アメリカは一体どうなるんだ、アメリカの指導者なら、どうしてもこう考えてしまう。


そうですよね。


日本人は今でも、仮にそんな可能性があるにしても、日本がアメリカをおびやかす大軍備をするはずがない、と思いこんでいるだろう。ただ問題は、日本人が意識的にそう思いこんでいるからといって、アメリカ人は、これをとうてい信じない、ということである。


はい、はい。


アメリカ人は、常に腹の中では、日本人は一体何をしでかすか分からない、とほうもない危険な人種だと固く思いこんでしまっている。そして日本人は、過去において、これでもかこれでもかと、そのような実例のみをアメリカに見せつけてきている。


そうですね。


一旦戦争が始まってみると、過去までの拝米主義が、鬼畜米英といって、特攻機にのって米艦に体当りする。マッカーサーが日本に行ってみると、超国家主義、軍国主義などを奉じてゲリラ活動する者も、地下運動する者も一人もなく、一夜にして、日本人はみんな民主主義者になってしまった。天皇自身、昔から民主主義者であった、というのだ。


はい、はい。


1960年の安保騒動。反米、アイク訪日反対を絶叫し、国会にまで乱入して革命前夜を思わせた日本が、ケネディが大統領に当選したとたんに、親米一色にぬりつぶされ、一夜にして反米から親米に変わった日本は、一夜にして親米から反米に変わるのではなかろうか。


はい、はい。


こつえん(忽焉)として軍国主義者から民主主義者に豹変した日本は、またある日、忽焉として共産主義者か軍国主義者に再豹変することはないであろうか。


はい、はい。


戦前、日本とアメリカとはながく友好国であり、アメリカにとって、ソ連こそ嫌悪すべき、もし可能ならばただちに抹殺すべき国であったのだ。


はい、はい。


アメリカは、その信念上、共産主義を憎悪し、ソ連を敵視していた。アメリカは、ロシア革命後、日本と同盟してシベリアに出兵して、ボルシェビキ政権を打倒してソ連を滅ぼそうとするのであった。


そうなんですね。


この企ては失敗するが、その後もアメリカはソ連撃減のチャンスをもとめ、容易にソ連政府を承認しようとはしなかった。アメリカがやむなくソ連承認にふみきったのは、やっと1933年、列強のなかで一番おそかった。


そうなんですね。


戦前、日本とアメリカとがながらく友好国であったことはすでにのべたが、さらに注意すべきは、政治的、軍事的レヴェルにおいて日米間の対立が激化し、いつ戦争になってもおかしくないような開戦前夜にいたるまで、日米の経済関係は、その底流においては、ますます密接化していったということである。


はい、はい。


戦前においても、その根本的姿勢においては、米ソは敵対関係にあり、日米は友好関係にあった。


はい、はい。


この基本的関係を逆転させたものこそ、日本の軍事的高度成長にほかならない。そして、仔犬のごとき日本がライオンとしてアメリカの前にあらわれたとき、アメリカは、やむなく対抗手段として熊と手を結んでライオンと闘うことになる。


はい、はい。


支那事変において、日本の敵、蒋介石政権に対して各種の軍事援助をするという意味での対日敵性国家群の中に、早くもわれわれは、米ソ両国を見出すことができる。


そうですね。


やがて、日本が三国同盟によってドイツと結びついたとき、日本の脅威はアメリカにとって切実なものとなった。このまま放置しておけば、日独両国によって世界は征服されてしまうと恐れおののいたアメリカ人もいた。 その日本と結んだドイツがソ連を攻撃したとき、ソ連はアメリカの友好国となり、港大な軍需物資がソ連に送られることになる。ヤルタ会談への路はひらかれた。


なるほど。


ソ連脅威論がナンセンスであることは、すでに論じたが、こんなソ連脅威の宣伝をやっているのは、一体どこの国なのだろう。その90パーセント以上はアメリカ発のニュースであり、残りの10パーセントも、たとえば英国の戦略研究所であるというようにアメリカの与国からである。


ほー。


1960年代のはじめ、アメリカは宇宙開発において、本当にソ連に遅れをとっていた。人工衛星をはじめて打上げたのもソ連なら、人間が宇宙空間にとび出したのも、ソ連のほうが早い。ときのソ連首相フルシチョフは、これは「体制」の勝利だとして、社会主義体制の資本主義体制に対する優位性をジャンジャン宣伝したものであった。


はい、はい。


他方、アメリカのアイゼンハワー政権は、いや、アメリカの技術だってそんなにソ連に劣っているわけではないと、見るもあわれなほど、宇宙開発におけるソ連の優位性を否定するのに躍起となった。


はい、はい。


そして、ケネディ政権が誕生すると同時に、アメリカは60年代に必ず人間を月に送りこむと宣言してアポロ計画を発進させた。


はい、はい。


宇宙開発などは、進んでいようと遅れていようと、国家の運命に直接に関係のあることがらではない。ただし、国の名誉がかかっている。宇宙開発においてすら、このありさまだ。これが軍備において、本当に敵対国に劣るとなると、外交上は相手のいいなりになってしまう。敵対している国家が、こんなことを認めるわけにはゆかないのだ。ではアメリカが、ソ連軍の優位を故意に宣伝する魂胆は何か。ほかに何か意図があって、そのためにする議論であることは明らかである。


ほー。


アメリカ軍は、ソ連軍に対して、現在でもはるかに優勢である。ただそのかくさ(較差)が、アメリカ人に安心感をいだかせるに十分なだけ大きいとはいえなくなったのでいらだっているのだ。


ほー。


アメリカ軍がソ連軍より実は優勢だというと、ハハンという人が多い。量的にはソ連のほうが勝っているが、質的にはアメリカのほうが上だ、と思うのである。


はい、はい。


ミサイルでも、アメリカのほうが命中精度がはるかに高いから、数は少なくても、結局、優勢になってしまう、というのである。


はい、はい。


ところが、これは事情がいきさか違う。


ほー。


アメリカの兵器のほうが、ソ連よりも質がすぐれているなんて、一体、何を根拠にして断言で きるのだろう。軍事秘密は国家最高の機密だから、最高の技術をもったスパイだって、なかなか 入手することはできない。


ほー、ほー。


まして、学者や評論家なんぞがその秘密に接近できるわけはないではないか。


ほー。


ソ連社会では、高級技術者は特権階層だから、われと思わん若者はみんななりたがる。それに ソ連の理科教育はたいへんに充実している。最近、ソ連の数学や物理の教科書が、さかんに英語や日本語に翻訳されているのだが、いずれも、すばらしい名著であることによってもこれは推察できる。


ほー。


科学技術者の人数も多くて、1977年の統計で、アメリカの1.9倍、日本の4.7倍、西ドイツの10倍の数にのぼっている。


ほー。


つまり、社会で最も優秀な頭脳の人間が、たいへんに質のよい教育をうけて、その人数も多いのである。そしてその選びに選ばれた技術者のなかでも、とくに優秀な人材が軍事産業に集まっている。


ほー。


この点だけを考えても、ソ連の軍事技術がアメリカよりもはるかに劣っているとは決して断言できないのである。


はい、はい。


もとより、科学技術全体のレヴェルにおいては、ソ連は、日本、アメリカ、ドイツなどより、はるかに劣ってはいるが、それだからといって、軍事技術もまた劣っているとは断言できない 。 ここが、軍事技術というものの恐ろしさだ。



はい、はい。


例えば、戦前のソ連は、科学技術のレヴェルにおいて、ドイツの足許にすらおよばなかった。しかし、ソ連戦車T34は、実戦においてはドイツ軍のいかなる戦車よりも、ずばぬけて強かった。


そうなんですね。


また、朝鮮戦争当時における米ソ科学水準の較差は、今日では考えられないほど大きかったが、ソ連製のミグ5戦闘機は、アメリカの、いかなる戦闘機にもひけをとらなかった。


はい、はい。


このようなことを考えあわせると、現在、ソ連の軍事技術はアメリカよりもはるかに劣り、それゆえ、ソ連軍は質的に、アメリカ軍に遠くおよばないすらという議論は成立たないのである。 大ざっぱにいって、アメリカ軍とソ連軍とは、質的にほぼ同水準にあるというべきであろう。


ほー。

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